沖縄返還とは何なのか

「沖縄返還とは何なのか」(12月14日発表)

 

■沖縄はなぜ1952年に返還されなかったか、なぜ1972年のタイミングで返還されたのか

 

我部政明著『沖縄返還とは何だったのか』では、アメリカの公開公文書を使用して、詳細な交渉プロセスが描かれていた。上記問題意識前半に対して、この本からうかがえることは、簡単に言って、冷戦時代の当時、沖縄の軍事戦略的価値は非常に高く、かつ他のアジア同盟国にある基地と比べ、沖縄基地の自由使用度が著しく高かったこと(核の貯蔵と軍事作戦時の法的・外的制約がないこと)が述べられていた。問題意識後半に対しては、国内世論において沖縄返還の機運が非常に高まり、日米関係の最も大きな障害となるまでに至り、新安保条約締結後10年が経ち一年前通告により自動失効が可能となる1970年直前に、沖縄を返還することで日本との不和を解消し、日米安保継続を確保するアメリカの意図があげられる。また60年代末には、潜水艦発射型のポラリス型ミサイルや大陸間弾道ミサイルの配備により、沖縄に核を配備しておく必要が薄まったこともあげられる。

 

○国際政治戦略の観点から見たアメリカの思惑

『沖縄返還とは何だったのか』においては、主に日米二国間関係の観点から論述されていたが、当時のアメリカにとって対日問題・沖縄問題だけが懸案事項ではなかっただろうし、よりマクロな視点からアメリカの戦略を分析することで見えてくるものもあるのではないか。

 

60年代末のアメリカを取り巻く国際政治状況をまとめると以下の四点が考えられる。

    ベトナム戦争の戦況の悪化

    ソ連の台頭-対ソ戦略再編の必要性

    中ソ対立の激化

    (ニクソン大統領自身が有していた対中政策の見直し観)

 

①に関して。この頃の米国の国際政治における地位の相対的低下傾向にあった。1967/68年にかけてベトナム戦争の戦況が激化し、1968年には米国軍の総兵力と在ベトナム米兵力がともに最大となり、軍事支出(300億ドル)が急増し、これが米国財政を悪化させる。また、この頃、日本や西ドイツの工業発展によって貿易戦争が激化、米国はこれにも敗北し、貿易赤字を生じさせる。

②に関して。このように、米国がベトナムでも、経済的にも困難な状況に陥っている中で、ソ連の軍事力が増加し、米国とソ連の軍事力の差が縮小する。1968年に、ソ連の軍事支出・軍事投資額が米国のそれを抜く。大陸間弾道ミサイル・ICBMにおいて、1964年当時、米国:750-ソ連:180だったのが、1970年には1054-1028にまで差が縮小。潜水艦核発射ミサイルにおいては、1966年当時に、米国:592-ソ連:125であったのが、1971年には656440に縮小。特にソ連の海軍力増強は顕著で、この頃にソ連艦隊はインド洋・カリブ海にも進出する。ソ連との軍事力の差を埋められ、米国の国際的地位が相対的に落ちていく中で、対ソ政策を見直す必要があった。

③④に関して。そこで、1950年代後半から、60年代をかけて熾烈化していく中ソ対立を米国が利用するのは必然的であった。中国と接近することで、米中ソの三角関係における、中継者の優位性を確保することが当時のニクソン政権の最大の課題だったのではないか。事実として、ニクソンは政権に就く前から対中関係見直しを考えていた。

 

→この状況で、アメリカはニクソンドクトリンと中国への接近(米中和解)という二つの政策をとる。

 

上記の①②から、逼迫する財政の中で軍事支出を減らし、その分を対ソ戦略に向けられるかが課題であり、結論として、アジアへのコミットメントを減らす政策転換を行う。ベトナム戦争のベトナム化や沖縄の返還がその表れであり、これをニクソンドクトリンという。

この観点から、沖縄返還交渉において、アメリカが経済・財政的な利益に拘り、結果として27年間の沖縄占領費に相当する額と「半永久的」に沖縄の土地貸借契約を無償で、かつ「おもいやり予算」という日本からの資金援助まで獲得するに至ったことが理解される。

 

そして、1971年にニクソン大統領の訪中が同盟国への十分な事前予告もないまま発表され、アジア各国に国を揺るがす衝撃を与える。特に、韓国・台湾・南ベトナムにとっては非常にクリティカルであった。その理由は、これらの国は、冷戦環境においてアメリカの元につくことで、アメリカから経済的・軍事的援助を受け、それによって国内的な正当性を保つことができたが、アメリカがアジアにおける共産陣営のトップと協調関係を築くことで、冷戦論理が覆され、自らの存在基盤を失う恐れがあったからである。

 当然この出来事は、日本にも大きな影響を与えた。ここで一般的に議論されるのが日中国交正常化ですが、私は、アメリカが米中和解を考慮したうえで、沖縄返還交渉に臨んでいた部分もあるのではないかと考えます。

 沖縄返還は69年に合意、71年に返還協定調印、72年に本土復帰という流れですが、69年の首脳会議で、なぜ72年に返還ということになっただろうか。69年に返還合意に関しては、翌年の国内総選挙を有利に進め、自民党政権存続・日米安保の継続という日米の思惑があったことが、69年の合意に結びついた。他方で、なぜ合意から返還まで3年必要としたのだろうか。簡単に、返還までの準備に3年かかるということが大きな理由と考えられるが、他方で米中和解によって生じる日本との信頼関係へのダメージを解消するために、敢えて米中和解後に沖縄の本土復帰を設定したアメリカの思惑があったのではないか。

 

19671972の主要事実

 

国際関係

日本

アメリカ

1967

 

2.17第二次佐藤内閣

11.15日米首脳会談終了(沖縄については討議継続)

 

 

1968

1.30テト攻勢

 

8.20ソ連チェコ侵入

 

4.5日米小笠原諸島返還協定(6.26復帰)

3.31ジョンソン、北爆部分停止、大統領選不出馬表明

 

11.1北爆全面停止

1969

3.2中ソ国境武力衝突事件

 

 

 

 

11.21佐藤・ニクソン共同声明(沖縄返還合意+『核密約』)

1.20ニクソン政権成立

23中国政策の転換の姿勢(NSSM1435

5.28 NSDM13

7.25ニクソン、グアムドクトリン発表

1970

 

1.14第三次佐藤内閣

6.22日米安保自動延長

 

 

12.16ニクソン、パキスタンを通じて中国へメッセージ

1971

 

6.17日米沖縄返還協定調印

7.9キッシンジャー、秘密訪中

7.15ニクソン大統領、米中接触について発表(第一次ニクソンショック)

8.15ニクソン、金ドル交換停止(第二次ニクソンショック)

1972

3.30北ベトナム軍による大攻勢

5.15沖縄返還

7.7第一次田中内閣

9.29日中国交正常化

2.21ニクソン訪中

出典:緒方貞子著『戦後日中・米中関係』1992年 東京大学出版会

 

アメリカの予算(単位:億ドル)

年度

予算

支出

差額

1968

1,529

1,781

-251

1969

1,868

1,863

32

1970

1,928

1,956

-28

1971

1,871

2,101

-230

1972

2,073

2,306

-233

出典:米ホワイトハウスHP http://www.whitehouse.gov/omb/budget/fy2004/pdf/hist.pdf

 

1970年のGDP

アメリカ:1兆253億ドル

日本:2063億ドル

 

1970年の日本の国家予算(支出)=8兆円

 1ドル=360円 6億ドル=2160億円(国家予算の2.7%)

 

参照

今川瑛一 『転機の米ソ関係 デタントは来るのか』 教育社 1986

今川瑛一編 『70年代アジアの国際関係』 アジア経済研究所 1980

太田昌克 『盟約の闇』 2004 平文社


     沖縄返還時の財政(補償費)問題

アメリカ側の財政交渉ガイドラインの志向的背景は、ベトナム戦争中からの国際収支が悪化する米国経済を立て直すために、米国が提供する安全保障秩序のなかで経済的に豊かになる日本に対し、相応の負担(バーデンシェアリング)を要求すること、また佐藤政権の要望に応えて沖縄を返還するのであるから、米政府に財政負担を一切かけることなく、返還に伴う財政負担を日本側が負うべきである、というものでした。

 そして実際の交渉過程を通じて、米国側の懸案事項は、①沖縄の流通通貨ドルと円との交換によるドルの価格下落をさせないこと、②返還にともなう財政的負担は日本側に負わせること、③返還時に得た補償費を広く自由に使えること、④できるだけ多くの補償費を得ること、で4点であり、日本の懸案事項は、①沖縄を金で買ったと思わせない、②米政府に対し支払う金額は国民に説明できるものにする、の2点に集約できます。(但し核関連事項は除く。)

 結果的にほぼアメリカ側の言い値の68500万ドルを、現金払い割賦払い・役務提供・連邦準備銀行預入の後約30年凍結を日本側は負担することになります。約35000万ドル分は日米間の密約であり、日本国民には公表されていませんが、このうちの1億ドル分が預入分で残りがアメリカ側懸案事項③にあたり日本本土の基地の移転費用に使われました。










大きな流れ

・52年サンフランシスコ平和条約→日本独立、但し沖縄・奄美大島・        小笠原諸島は米施政下

 72年5月沖縄返還(佐藤栄作)

 同年9月日中国交正常化(田中角栄)

 78年日中平和条約(福田赳夫)

※国家間関係として、国交正常化と平和条約の違いは後者の場合、戦時の懸案事項が基本的に解決した状態であると理解しております。従って日中間では中国の戦後賠償放棄により平和条約を締結しておりますが、日露間は北方領土問題が解決していないため、国交正常化止まりであると認識しています。

・問題点

 1、52年時になぜ沖縄も返還しなかったのか?

 2、なぜ統治までする必要があったのか?

軍事目的であったとの理由は、返還の有無に関らず、駐留軍をおくことで目的が達成されるため、理由になりません。他の理由を考えましょう。当時、日本の繊維産業が対米大幅黒字であり、両国の貿易問題でしたが沖縄を米側に留めたことで、輸出超過継続の方向が継続されたため、日本政府は、「糸で(沖)縄を買った」と揶揄されました。

 3、72年、なぜこのタイミングで沖縄は返還されたのか?

 4、当時の東アジア(ソ連を含む)のパワーバランスは?

ヒントはキッシンジャー外交にあることは間違いないでしょう。71年ニクソン訪中ですが、中ソ対立は既にフルシチョフのスターリン批判以降から始まっています。ソは対米平和共存路線でしたが、毛沢東は対米強行路線で、58年大躍進政策、59年中ソ技術協定破棄、62年中印国境紛争ではソのインド支持とキューバ危機の妥協、66年プロレタリア文化大革命、68年中国のプラハの春批判、69年ダマンスキー島紛争、一方アメリカは65年ヴェトナム北爆、68年パリ和平会議で挫折、米の経済的覇権が揺らぎ、71年ニクソン=ショック(8月)の直前7月にニクソン訪中になります。

 5、返還時の軍用地はどうなったのか?

沖縄住民に返す際に、軍隊の宿舎や戦車が散々踏みしめた土地、大砲をうちまっくた禿山をそのまま返していただいても困ります。撤去費用・整地費用は当然使った人たちが出すのが筋でしょうし、日本の公文はアメリカ負担となってますし、外務省・政府は今でもアメリカが負担したと言ってますが、アメリカの文書や当時の担当者(「他策無カリシヲ信ゼント欲ッス」の著者)はどうも違うことを言っています。

後者を信じるとした場合、なぜなのか?

 

それでは次回までに

『沖縄返還とはなんなのか?』NHKブックス

『他策無カリシヲ信ゼント欲ッス』

『   』手嶋龍一

を読んだり読まなかったりして、全体像を掴んできましょう。

間違いがあれば訂正してください。

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最終更新:2007年12月14日 15:23