869-876

作者:ID:QeuCU6On

 僕はペンを止めた。
それから椅子の背もたれに体を預け、曲がっていた背骨をグイと伸ばす。
そして一呼吸ついて、すっかり冷えた、コーヒーを溶媒にした砂糖の飽和水溶
液を飲み干した。
僕は首を鳴らしながら机の上の原稿用紙からその上に転がる万年筆、さらにそ
の横に開かれた植物図鑑へと順に目をやった。
襟元を正して椅子から立ち上がり、その図鑑を閉じて脇に抱える。
帽子かけの帽子を行きがけに手にとって、僕は書斎を出ていった。


ハルト邸には謎が多い。いつの時代にも、どんな場所にも存在するその場所の不安定さのせいか、この館
の中ではしばしば不思議なことが起こるのだ。
いや館の中だけではない、館を囲む、まるで木の影だけが立体となったものが
沢山地面に刺さっているかのようなあの暗く静かな森でもそうだ。
僕は一度あの森で頭が三つある犬を見て以来、森に近づくのをやめていた。
その三頭犬の遠吠えらしきものを聞きながら僕は廊下を歩く。
この廊下の長さも、面する部屋数もしょっちゅう変わる。
だがどんなに部屋の位置が、繋がる場所が変わろうが、不思議なことに目的の
場所にはいつも、いつの間にか着いているのだった。
おっと。
僕はいつものようにいつの間にか目的の部屋の前に着いていた。
扉には図書室と書かれた銀のプレートが緻密な彫刻に飾られてはまっていた

しばし立ち止まって、その彫刻の踊るような模様を少し眺めてから扉を開ける。

 図書室はとんでもなく広い。
 天井はそこから吊るされているランプの明かりが夜空の星粒程度にしか見えな
いほどに高く、しかもそこには、床の上から図書室の壁に並べられている、本が
ぎっしり詰まった本棚が届いていた。
しかもその本棚も、文字通り図書室のすみからすみまで敷き詰められ、端から
端まで走れば息があがってしまうほどに大きい。
館の外観から考えた場合、明らかにあり得ないほど天井が高く、そして広いの
だが、ハルト邸ではよくあることだ。
部屋の壁だけでなく、勿論部屋の中には天井近くまで届く本棚が並べられてい
る。
恐らく、図書館を丸々二つぶちこんだ位の蔵書量はあるだろう。
それでもキチンと分類分けはされているのだから驚きだ。
しかし師匠が分類分けの作業をしているところは見たことが無いし、勿論僕も
美作もやっていない。
きっと本棚が自分でやっているんだろう。と、僕は勝手に納得していた。
僕は本棚についている標識に従って、図鑑の棚を目指した。
本棚を三つ過ぎ、右に曲がって五つ過ぎ、左に曲がって七つ過ぎ、さらに右に
十三の本棚を過ぎて、壁の本棚にたどり着く。
これからさらに左に本棚を数個過ぎれば目的の本棚なのだが、途中で妙な通路
を見つけて足を止めた。
その通路は図書室の壁に、人間一人がやっと通れる程度の大きさで、延びてい
た。
入り口は本棚を切り取ったように不自然に開いていて、異様な雰囲気を漂わせ
ている。
図書室の広さと相まって、服のほころびを発見した時のような驚きを覚えた。
よくよくその通路の暗がりに目を凝らすと、その通路の両側の壁も本棚で出来
ているようで、この部屋の壁と同じように本が敷き詰められている。
どうしていままでこの通路に気がつかなかったのだろう。
僕は興味をそそられて、中を覗いた。

何やらカビ臭い。通路内は冷気で満たされているようだった。
僕は唾を飲み込む。少し恐ろしい。が、好奇心は簡単にそれを押し退けた。
中は明かりが無く暗いので、僕は図鑑を本棚に戻してから少し駆け足でランタ
ンを取りに戻った。
再び通路の入り口に立った僕はランタンに火を点け、ちょっとした冒険でもす
るような気分で足を踏み入れた。


中は暗闇だった。
予想以上に寒く、息はほんのりと白くなっている。
時々後ろを振り向いて遠くに見える通路の入り口明かりを確認しながら僕は進
んでいった。
通路は一本道かと思われたが、所々で枝分かれしていて、どうやら迷路のよう
になっているらしいことがわかった。
迷子になって戻れなくなるのだけは避けたいので、僕は入り口から一度も曲が
らずに通路を歩いていたのだが、まるで通路の端につかないので、不安になって
立ち止まった。
もう数分は歩いているはずだけれど。
僕はランプを壁に近づけ、本棚をじっくり見てみることにした。
本棚の本は図書室にあるものと違って、分類分けはされていないようだった。
というか、本のタイトルから内容が想像できる本が少なかった。
「時間を無駄に使え」「便器を殺せ!」「己の尾を噛む蛇」「環境破壊を楽し
もう。いや、やっぱ止めろ。」「るるふあゆしきたんだるーふぁ?」「猫は美味しい。」
「赤字天国」など、少し見ただけでもその混沌ぶりに頭が痛くなった。
だがその分ますます好奇心が掻き立てられる。


僕はランタンを床に置き、適当に本棚から本をとってその場に座りこんだ。
ランタンの明かりにかざして本の題名を見る。
この本の白い表紙には「キーン家」と書かれていて、さらにその下に師匠のも
のと思われる注意書が貼り付けてあった。
「読むときは呼吸、特にため息厳禁。」……意味がわからなかった。
とりあえず息を止め、開いてみると、この本は飛び出す絵本のような、本を開
くと絵の一部が立体になる仕掛けが施された本のようだった。大きな家の絵が飛
び出している。
だがしかしよく見ると絵が飛び出しているのは紙に施された細工のせいではな
いことがわかった。
紙には何も仕掛けは無いのだ。
ただどういうわけか、インクで描かれた家の絵が平べったいまま立ち上がって
いるのだ。
さらによく見ると、絵の家の中でも何か動いている。
家の二階の窓からデフォルメされた太めの男性が驚愕の表情でこちらを見てい
た。
そして一階でも若者が同様に驚いた様子でこちらを見ている。
僕はその様子が可笑しくて、思わず少し吹き出してしまった。
すると僕の息に吹き飛ばされて若者がどこか本の外に消えていった。
二階の男性が何か叫ぶようなポーズをする。
僕は慌てて本を閉じてからやっと本の題名と注意書の意味を理解した。
僕は自分の周りを見渡して、吹き飛ばされてしまった若者、恐らくキーン家の
長男を探したが、見つかりそうになかった。
ひどい罪悪感を感じつつ僕はそっと本を棚に戻した。
それにしても驚いた。
もしかしたらこの通路に集められているのは、さっきの本のような、魔法がか
かった本たちなのかもしれない。
図書室にはこういった類いの本は置いていない。
師匠が時々奇怪な本を持ち出してくるのはここからなのかも。
僕はそういった怪しく魅力的な、未知の知識が目の前に並べてあると思うと、
とても興奮した。

ランタンを拾ってもう少し歩を進めると、僕は進路を塞ぐ黒い鉄柵にぶつかった。
鉄柵には取っ手がついていて、簡単に押し開くことができそうだ。
だが僕はその鉄柵を開ける前にそれにかけられたプレートに気づいた。
それは銀の丸いプレートで、表面に魔術的ななんとも形容しがたい幾何学模様
が刻まれている。
そこには模様と共にサンスクリットやヒエログリフに似た文字のようなものも
刻まれていたが、僕には理解が出来なかった。
鉄柵の向こうには今までと同じような通路が続いているのが見えたが、雰囲気
に何か異様なものが感じられた。
なんというか、今までの通路は物置小屋のようなカビ臭さと異常な冷気で満た
されていたが、この鉄柵の奥からは一種の恐怖や、むかつくような危機感すら感
じられたのだ。
普段の僕ならここで素直に引き返しただろうが、この時、僕は、予想外の財宝
の山の発見に浮かれていた。
僕は本能の赴くままに鉄柵に手をかけ、それをいとも容易く押し開いた。
しかしそれでも精神を病む恐怖心は完全に身を潜めたわけではなかったので、
僕はすぐに鉄柵を閉められるように、鉄柵のすぐ近くの本を題名も見ずに手にと
った。
そのまま片手で無造作に本を開き、ランタンを近づけて内容を見ようとした次
の瞬間、僕は悲鳴をあげていた。
僕は反射的に本を壁に投げつけ、ランタンを前にかざしてその本を、涙を少し
浮かべながら見る。
一体なんだあの本は!
一体、あそこに書かれていたものは――
僕は床に落ちたその本に、ランタンを盾のように構えながらにじりよって、あ
の世にも恐ろしい光景が幻でないことを知った。
本がこちらを見ていた。
開かれた古めかしいページには、無数の、ひどく生物的な人間の目が張り付い
ていて、それらが時々瞬きをしながらこちらをじっと見つめてくるのだ。
僕は逃げ出したくなるのを必死にこらえつつ、その忌まわしい魔法の本を、目
を背けながら指先で拾い、素早く閉じた。


そして本がひとりでに蠢き襲いかかってくるのではないかという脅迫的な考え
と、一秒も触れていたくはないほどの気持ち悪さに耐えて、素早く本を元の棚に
戻した。そうしなければいけない気がしたのだ。
僕は胸を押さえながらランタンを掲げて収めた本の背表紙を見た。
「目は口ほどにものを言う」という題名がそこに書かれているのを見て、僕は
その本の内容に、恐怖しつつも納得した。
その時、僕は通路の奥の闇に何かの気配を感じとった。
あまりにも衝撃的なものを目にしたために、神経が過敏になっているのかもし
れない。
だが次第に気配はその気配だけでなく、音も伴って確かなものになってきてい
た。
その音は何か巨大な生物の足音のようで、粘液にまみれた大蛇がのたうちまわ
るような騒がしく、重く、大きいものだった。
それは闇の奥から微かに聞こえていたが少しずつ確実にこちらに近づいてきて
いる。
おまけに腐臭にも似た不快で脳味噌を悪くするような悪臭もただよってきてい
た。
僕はその臭いにふらつくと同時に、恐怖から足が震え、逃げ出せないでいた。
僕は恐怖と緊張と共に湧き上がる、酷い船酔いのような、今までに経験したこ
とがない、世界が揺れるほどの不快感に今にも卒倒してしまいそうであるにも関
わらず、視線だけは確実に何かがやってくる闇の奥から離せないでいた。僕の思
考はとうに停止していた。
やがてとうとう悪臭がとびきり濃くなり、異様な足音が通路を揺らすほどにな
ったころ、そのやってきたものの輪郭がおぼろ気に見えた。
と同時に僕の心の一番奥深い、原始的な部分にある生物としての本能が、身に
迫る危機をようやく理解した。
そして僕はほとんど無意識かつ反射的に、愚かなことをしてしまった。
僕は恐怖のあまり、手にしたランタンを、その闇の奥から迫りくるものに向か
って、思い切り投げつけたのだ。
その火のついたままのランタンは空中に回転しながらそのものに激突する。
その刹那、ランタンの火でその迫りくるものの姿が照らされた。

僕は悲鳴を、先程あげたものの数倍の大きさの絶叫をあげた。
闇にほんの一瞬浮かび上がったその姿は、僕の貧弱な語彙力では勿論のこと、
世界中のあらゆる言語のあらゆる嫌悪と侮辱と冒涜の言葉を用いたとしても到底
足りないほどに邪悪な姿をしていた。
それは怪物や魔物ではなく、その枠組みからすらも弾き出された、最悪を体現
したものだった。
その巨大な丸い体は無数の細かい触手に覆われていて、それらは七色に光る粘
液を吐きながらそれぞれ激しく蠢いていた。
触手の合間には鳥や魚のものの様なおぞましく虚ろな、瞼の無い目がところど
ころに、規則性などはまるで感じられずに覗いている。
その触手の中でも一際巨大で、蟹や蜘蛛の足のように本棚にかけられたものは
、七色の粘液にまみれていたが、人間の指の形によく似ていた。ランタンが当た
ったのはその内の一本で、中の火が僅かに、そのゴムのように見える異常に白い
皮膚を焼いた。
だがそれは怯むことなど無く、床にこぼれ落ちた火を踏み消して、再び暗闇の
中をこちらに向かって前進してくる。
僕はそれの立てる無数の足跡と、冒涜的なまでに美しく輝く七色の粘液と、そ
の中に垣間見える周囲の闇よりも暗い目を見てしまった。
だが幸運にもそれは一瞬だけだった。
もし明るいところでその姿を、真正面からしかと見据えていたら、僕のような
並みの精神の持ち主は心を貪られ、たちまち発狂死してしまうだろう。
しかし僕はほんの一瞬――それでも生涯忘れることは出来ないであろう恐怖を
心に刻むには充分すぎたのだが――だったので、意識を失ってその場で倒れ伏す
程度で済んだのだった。


目覚めた僕は、ひどい汗をかいていた。
僕はあの不自然に広い図書室の、壁ぎわの通路に仰向けに倒れていた。
そんな僕のすぐそばにはハルトシュラーが立って僕を見下ろしていた。
「床で眠るなんてのは、人間ではなく獣のすることだ。」
彼女の眼差しにはわずかな軽蔑が感じられた。
僕はひどい頭痛に頭を抱えながら、なんとか立ち上がる。
壁に寄りかかって呼吸を整えるあいだに、彼女に事情を訊かれたので、僕はな
んとかいくつかの単語を組み合わせる形で、自分の身に起こったことを伝えた。

彼女はあからさまな不信感と共に眉を潜めた。
「倉刀、熱でもあるのか?そんな通路はこの部屋には無いぞ。」
僕は耳を疑い、改めて図書室のとてつもなく大きい壁を見た。
本棚は途切れることなく威圧的にそびえていた。
「そんな……」
そうした物的証拠の喪失とともに、僕は自らの身に起こったおぞましい体験が
急にその現実味を薄れさせていくのを感じた。
もしかしたら本当に何もかも夢だったのかもしれない。いや、そうであると信
じたほうが喜ばしく、精神を健全に保てるのだ。
僕はひきつった笑顔を無理矢理作りながら、彼女のその優しい意見を肯定した

その様子を見てハルトシュラーはため息をつき、僕に休息をとるよう促した。
「きっとお前は何かたちの悪い病気にかかったのだ。後で薬と冷えピタを持って
いってやるから、ベッドで安静にしていろ。」と彼女は言った。
僕はうなずいて、壁の本棚に手を突きながら図書室の出口に向かって歩き出した

その時ハルトシュラーの姿に妙な違和感を覚えた。
その正体はすぐにわかった。
彼女はその白い右手の中指に包帯をしていたのだ。
ああ、きっとあれは火傷のための包帯に違いない。
何故か僕の頭にはそんな考えが閃いた。
しかし僕はそれ以上を考えるなんていう愚かしいことはしなかった。
もし考えてしまったなら、僕は精神を病むばかりか、逃れようのない身体的な
脅威にさらされるのが分かりきっていたから――


そこまで書いて、僕はペンを止めた。
それから椅子の背もたれに体を預け、曲がっていた背骨をグイと伸ばす。
そして一呼吸ついて、すっかり冷えた、コーヒーを溶媒にした砂糖の飽和水溶
液を飲み干した。
僕は首を鳴らしながら机の上の原稿用紙からその上に転がる万年筆、さらにそ
の横に開かれた植物図鑑へと順に目をやった。
襟元を正して椅子から立ち上がり、その図鑑を閉じて脇に抱える。
帽子かけの帽子を行きがけに手にとって、僕は書斎を出ていった。


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最終更新:2012年06月11日 20:32
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