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作者:ID:73g3Q0Hb

年齢不詳の男だった。
二十代でも十分通用するだろうが、五十代と言われても納得はしてしまう。
東洋人なのは明らかだが、見に付けている服や小物を見てもそこに何らかの嗜好や方向性を見出すのは難しい。
徹底した。強烈なといってもいい無個性。せいぜい東洋人としてもかわり矮躯であることくらい。
それが彼が周囲に与える第一印象だ。

それでも彼は、世界中の誰もが知る男だった。
世界中の人が彼の顔を知っていたし、その業績の一片を知っていた。
それはもちろん、とある小さな国のとある小さな町のとある小さな宿屋の地下のバーで、
たまたま彼の隣に座ることになった一人の若い女にとっても同様だった。

薄暗いバーだった。照明が抑えられているせいばかりではない。
狭い上に、それに見合うだけの客もいない。料理と酒もそんな昏い空間に華を添えてくれるようなものではなかった。

「あの……」
客は彼ら以外にはニ、三人だけ。その人たちはよほど深酒をしているためか、彼の存在に気付いていない。彼女は緊張に震えながらも口を開く。
「人違いだったら失礼なのですけど……」
もちろん彼女が日本語など話せるわけはない。
しかしこの男は、風聞によれば二十七の言語を喋れるという。ならばもちろんこの国の言葉だって知っているはずだ。
「もしかして、カシワギ・ユウさんではありませんか?」
その時初めて、なにやら得たいの知れない酒に口をつけていた男が、自分のすぐ隣にすわる若く痩身な少女に興味を向けた。
「柏木夕、か。なるほどなるほど。あなたは僕をその名前で覚えていてくれたんだな」
流暢なスワヒリ語だった。
「しかし正確では無いな。僕は今は、この国には『柏木夕』として来ているんじゃない。
小説家としてではなく、『柏木司』という人形作家としてここに来ているんだよ」
そう答えると、少女は面食らったように口を噤んだ。それを見て『司』は他の客がみんな振り返るような大声で笑う。
「構わないさ、本意でない名前で呼ばれるのは慣れてる。好きに呼んでくれたらいい」
『司』にもわかっている。今、この世界で自分が誰かに呼ばれるときに最も多い呼び名は『柏木夕』だ。
その名前が、小説家としては世界でもっとも権威のある賞を受賞しているからだ。

「カシワギ・ツカサ……聞いたことはあります。それに、カシワギ・アカネやカシワギ・ワダチ、
カシワギ・カナデもあなたの名前でしたっけ?」
そうだ、と答えるかわりにグラスを飲み干す『司』。
「それにしてもなんでそんなに沢山の名前を使ってるんですか? あなたの本当の名前は?」
「さてね」
『司』は空になったグラスをテーブルの上に置いて呟いた。
「俺はいろんな名前を名乗ってきたから、本当の名前が何だったのかは、もうわからなくなってしまったよ」
それを冗談だと思ったのか、少女は口に手を当てて笑った。

ふと、思いついたように少女はポシェットの中に手を入れると古いボールペンと手帳を取り出した。
「あの、サインをお願いしてもいいですか?」
「僕なんかでいいのか? 紙とペンにはもっと有効な使い方もあるだろう」
『司』の遠まわしな拒絶に、少女は無邪気に笑って答える。
「ええ、だってあなたは天才です。世界中で誰よりも偉大な芸術家じゃないですか」
「いいや」
『司』は少女からペンと手帳を受け取ると、手帳の一番最後のページを開けた。
「本当の天才は僕みたいな奴のことじゃないさ。それに気付かない人たちばかりだから、僕は……
いや、何でもない。すまなかったね」
「あなたより頭のいい芸術家が、今の時代にいると思いますか?」
「ああ」
一番最後のページの、右下の隅に小さく自分の署名を入れる。
「それは誰です?」
一分間の沈黙の後、彼は答えた。
「―――ハルトシュラー」




小説家。
エッセイ作家。
ノンフィクション作家。
放送作家。
詩人。
作詞家。
デザイナー。
写真家。
画家。
人形作家。
彫刻家。
脚本家。
映像作家。
作曲家。

今まで自分に付けられた肩書きを、もはや全て思い出すこともできない。
そして彼はそれの全てに、「異なる名前」で臨んだ。
顔を隠すだけでなく、名前も変えることで作品の受け手の誰も本当の自分自身には辿り着けない。
そんな何者でもない誰かになろうとした。
芸術家を志して間もない時に出会った、一人の少女に憧れて。

彼にとって、その少女はあまりにも圧倒的で絶対的な天才だった。
彼女の生んだ物語を一つ読むごとに、彼女の生んだ作品に一つ触れるごとに、彼は戦慄して絶望した。
これほどの境地、一体どれだけの思弁と渉猟の果てに辿りつけるのか。
しかしそれ以上に彼が憧れたのは彼女の、自分の作品以外の全てへの態度だった。
作り手は作品を通じてのみ語るべし。
彼女はそんな理想をあくまでも貫き通していた。
憧れだったし目標だった。
その「創作者」としての在り方に憧れて、彼女のようになろうとして、彼は十を超える分野で次々と作品を発表する傍ら、
自分の作品に解説も後書きも付けなかった。
取材も受けず、作家という身分から離れた立場で人前で話すことさえも拒絶した。
全ての分野で名前を変えて活動したことも好を奏した。
お陰で彼は誰からも才人と認められながらも、誰からもその才能の全容を見透かされることは無かった。
彼の矜持を知っていた人間すらも、彼の創作活動の全てを把握することなどできなかったのだ。
そのまま行けば、彼は必ずあの日出会った少女と同じ境地に、いや、それよりも高みへすらも到れるはずだった。

(この国も、流石にこの時期は寒いねえ)
朝一番で宿を出た『司』は、人通りもほとんどない狭い道の上で白い吐息をついた。
昨日はほとんど徹夜で「柏木夕」としての仕事をこなし、「柏木司」の名前のもとで行われる人形展の打ち合わせという仕事が控えているが、
その前に彼には行くべき場所があった。
たとえこの国が忘れてくれても、世界中の人が忘れてくれても、決して忘れるわけにはいかない場所。
『司』はタクシーを捕まえるのをあきらめると、矮躯に不釣合いな大きな荷物を担ぎながらバス停を探して歩き出した。


宿の側のバス亭からバスで一時間、そこからさらに歩いて二十分弱。
そこが「柏木夕」の、今回の旅の目的地だった。
新興国の活気めざましい町並みの中で、その一角だけが不自然に何も無かった。
焼け野原同然に何も無いこの空間そのものが一つのモニュメント。
はるか昔に起きたその事件のことを人々は意図的に、あるいは無意識的に忘れ、いまやそのモニュメントの傍らに立つ石碑に
称えられた名前に目を向ける人もいない。

昔、ここで何万人もの人が死んだ。
その後に起きたことで、何十万人もの人が死んだ。

その原因となったのは、「柏木夕」が発表した一冊の本だった。
『夕』はその中で、暴力に頼ることの愚かさを表現したつもりだった。しかし、結果的にその本が多くの人々の命も、誇りも、奪ってしまった。
世界的な非難の渦中にありながら、『夕』は誰よりも彼自身を責め続けていた。
なぜ自分の言葉は誰にも届かなかったんだろう。なぜ自分は結果的に彼らを殺戮へと煽ってしまったのだろう。
自分にもう少し技量があれば、こんなことにはならなかったのに。

あの日、少女は「創作者は創作物でのみ語れ」と言った。
しかし、それだけで語れるほどの腕が無い者はどうすればいい。
ただ目の前で死んでいく人たちを、黙って見ているしかないというのか。
彼らに手を差し出すことさえも、許されないというのか―――


意を決し、『夕』は世界中のメディアの前に姿を現した。
『夕』自身の口から語られた、彼の作品に対する言及は、結果的に殺戮を食い止めるのに貢献した。
それが、彼とハルトシュラーとの決別だった。
彼はもはや顔も隠さず、声も隠さず、自分の才能さえ隠そうとはしなかった。
自分が別名義で画家や作曲家や映像作家として活動していることを公表すると、世界は彼を天才と崇め立て、羨望と尊敬と畏敬を向けた。
彼の言葉は世界中の人々に影響を与え、その一言が世界を左右するとまで言われるようになった。

その後も、あの少女に出会うことはあったが、決していい形ではなかった。
それでも彼は後悔しなかった。ハルトシュラーに対して、初めて対等に向かい合ってこう言った。

「僕は自分のできる限りのことをしているだけだ。人には無い才能を持って生まれてきた人間には、きっと義務がある。
世界をよりよい方向に導いていく義務が。みんなに、夢を見続けてもらう義務が」


そうだ、僕は何も間違ってなんか無い。
たとえ誰にどう思われようと、僕は間違ってなんか無い。


『司』は石碑に刻まれた全ての名前を読み終えると、やおら担いでいた荷物を地面に下ろし、その中から一つのケースを取り出した。
それは「柏木司」を「柏木巡」に変える小道具、自ら製作したバイオリンだった。
群集の視線も気にせずに手に取ると、即興で作曲した追想曲をその指で奏で始めた。
この場で散った全ての人へ。自分が救えなかった全ての人へ。

世界中の誰もが知る男が街中でバイオリンを弾いている。この光景に、時期に人が集まって大騒ぎとなるだろう。
それでいい。この指は、人々を救い導くためにあるのだから。



世界中の誰もが彼の顔と業績の一部、そして才能と高貴な心を知っていた。
しかし、彼の本当の名前を知るものは誰もいない。


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