721-723

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作者:ID:g42+5/qO ---- 世界の果てにあると伝えられる一軒の館がある。 そこに行こうと思っても決してたどり着けないが、例えば学者が研究上の問題で行き詰ったとき、画家が満足のいく作品を仕上げられない自分に絶望しかけたとき、 学生が自分の修めようとしている道のあまりの遠大さに途方にくれた時などに、ふと迷い込むことがあるという。 この世のあらゆる知が収められていると言っても過言では無いかもしれない巨大な図書館。 ぎっしりと本が詰まった本棚が規則性も無く乱雑に並んでいる様は、さながら本の森か、あるいは海か。 掃除をする者などいるはずもないのに、本も床も埃一つ付いていない。 そんな海の底、四方を本棚に囲まれた床に上にこの館の主である男が座っていた。 青年にも見えるし、老人にも見えなくも無い。国籍も不肖なら、外見からその気質を覗うこともできない。 そんな圧倒的に無自己な男の周りには、二十を超える本が広げられていた。男はそれを全て同時に読んでいるらしく、常にどれかのページを捲っている。 本に印刷されている言語は日本語・英語からドイツ語やフランス語、さらにはヒンドゥー語やスワヒリ語まで様々だったが男は何の不便も無く全ての本を黙々と読み進めていた。 自分の一番近くにある本のページを捲っていた男の手が、「その気配」を感じてふいに止まる。 それと同時に、男の背後から少女の声がした。 「相変わらず非生産的なことをしておるのう、柏木」 振り向いた男は、本棚の間に立つ少女の姿を認めて微笑んだ。 「お久しぶりです、閣下」 敬意を込めた口調では無かった。少女のほうももちろんそれを察したが、別段気にも留めず話を続ける。 「さて、今のお前はどの名で呼ぶべきかな」 「さあね」 柏木は首を傾げて見せた。 「ついさっきまでは『轍』として仕事をしていたので、その名で呼ばれるのがしっくりくるが……こうして資料を漁る行為は、『夕』としての仕事のためである部分が多いから、 自分の気持ちとしては今は『柏木夕』だな」 「他人の創作物などに刺激を受けないと何も作れぬ創作者は三流以下だ」 「ああ、僕は知っての通りの三流作家だからな」 それを聞くと、閣下と呼ばれた少女は面白く無さそうに肩を竦める。 「全く、皮肉の一つも通じないとは相変わらず面白みの無い奴だ。お前と私では、何もないところから全く新しい物を生み出す才では私のほうが優れているが、 すでにあるものを吸収し整理して別のものに組み立て直す才ではお前のほうが勝っているだろうよ」 柏木にしてみればそちらのほうがよほど皮肉に聞こえるのだが、そうではないことはその顔を見れば分かる。 彼女は自分のことを褒めているのだ。そう思うと嬉しかったが、顔には出さなかった。 「それにしても、お忙しい柏木先生がこんなところで油を売っていていいのか?」 「白々しい。ここは時間の流れの外にある空間であることくらいは知っているだろうに。僕もたまには息抜きをしなければ流石にもう体が持たない」 「そちらこそ白々しい。お前も、もはや肉体的な年齢などを気にするような存在ではなかろうに」 お互い会った時には必ずするような冗談を言い合った後、柏木はやや真剣な顔になって尋ねた。 「それで、用件は?」 「なに、大したことではない。もしや、うちの馬鹿弟子の行方を知らぬかと思ってな」 その口ぶりから、誰のことであるかは即座にわかった。 「倉刀君、いなくなっちゃったの?」 「今朝方から姿が見えぬ。あの馬鹿弟子が姿を眩ますのは一度や二度ではないが、今度ばかりは近辺を探しても姿が見えん。 もしやお前の工房か書斎にでも逃げ込んでいるのではないかと思ってな」 「そりゃあ生憎だ。僕はあの子にはそこまで好かれていない」 肩を竦めて笑う柏木。 「悪いけど、姿は見ていないし思い当たる所もないな。腹が減ったら帰ってくるんじゃないか?」 「あやつは意地だけは一人前じゃからのう」 不肖の弟子に対して諫言辛句を浴びせ続ける少女だが、その口調と表情に注目するまでも無く、柏木には手に取るように分かっていた。 彼女は、心の中の誰にも見えない場所で、本気で弟子のことを心配しているのだ。 「つまり、出て行った原因にもその意地の強さが関係しているわけだ?」 図星、とばかりに少女は頷く。 「あやつめ、ほんのちょっとキツめに言ったくらいのことでこんな真似をしおって。 そりゃあ、いや少しばかりは言い過ぎたかもわからんが……いや、このくらいで音を上げているようでは困るのだ!!」 怒りも露な少女の姿を見て、柏木は苦笑する。この件についてはまだまだ一悶着起こりそうである。 苦笑しながら、柏木はいまやいずこにいるとも知れない倉刀について静かに同情した。彼と師との間に何があったのかは知らないし、 知るつもりも無いが、あの彼がこんな大それたことをするからにはそれなりのことがあったのだろう。 「全く、そもそもこっちはそれほど本気で言ったわけではないのだが」 少女は腰に手を当てて頬を膨らませている。そうしていると本当にただの少女のようで、「閣下」と呼ばれる神のごとき存在には見えない。 「―――恐ろしくは無いのか?」 ふと、そんな言葉が口をついて出た。 「ん?」 と怪訝な顔を向ける少女。自分としてもなぜそんな言葉が出たのかわからないくらいだったが、出てしまったのなら仕方が無い。続けてみせよう。 「あんたの何気ない一言で、彼の心は恐らく酷い傷を負った。傷つける者が一人であるならまだいいが、あんたの本は世界中の誰もが読む。あんたの作品は世界中の誰もが目にする。 本の中に何気なく書いた一言が、大勢の人々の人生を変えてしまうことだってある。実際、僕のところに来る手紙の文面のほとんどは版で押したように同じだ。 『この本を読んで救われました』 『あなたの作品に触れて世界観が変わりました』 僕は、それが恐ろしい。何気なく書いた一冊の本が世界さえも変えてしまう。僕やあんたが授かったのはそういう才能だ」 「ならば書かなければいいではないか」 「それはできない。僕は創作者だ。自分が正しいと思ったことを書き、美しいと思ったものを作るんじゃなかったら、創作者には何も無いんだ」 本の呼吸音が聞こえそうなほどの沈黙が降りた。 その沈黙の後、少女が口を開く。 「なるほど、それがお前が自分の作品について語る理由か?」 「少なくとも、その一つではあるな。僕は僕の作品の価値を知っている。が、それだけを世界に向かって投げつけて、それで良しとすることはできない」 そのせいで悲しむ人が出るのなら、そのせいで諍いや誤解が起こってしまうのなら、完成品である作品に余分な言葉を添えることも否とはしない、と。 それが柏木の姿勢だった。 作品のみで語ることのみを是としたハルトシュラーという名の作家とは、全く違う理想。 それを今この場で語ったことについて、どういう意味合いを見出したのか。 柏木と相容れない矜持を持つ少女はふん、と鼻を鳴らした。 「ふん、恐ろしい、か。そりゃあ恐ろしくないかと言われればウソになるかもしれんが……まあ良い。お前のそういうところは嫌いではない」 「好きでもなさそうだな」 「当然だ」 もとより答えを求めての問答ではない。はっきりとした答えを得られなかったとしても柏木には不満は無かった。 「すまんのう、思いの他長居してしまった。仕事も詰まっておろう」 「今日はこの後『柏木旭』として雑誌の取材受けて、その後『柏木巡』として打ち合わせ。ああそういや、『柏木渉』としての締め切りも今日だったな」 「聞いただけで吐き気がするのう」 本当に胃がもたれたような顔をしながら、少女は男に背を向けた。 「邪魔したのう。もしあやつがここに来るようなことがあれば知らせてくれい。それでは失礼する」 そう言い残して、気のせいか、少し早足で本棚の間を歩いて去っていく。 その背中を見送りながら、柏木は少し寂しそうな、それでいて清々しそうな顔をした。 かつて、あの背中を追いかけた時があった。 あの背中に追いつこうとして、追い抜こうとして、同じ道を行こうとしたことがあった。 今となってはもう過去形でしか語れない決意。 最早胸に抱く矜持も違えてしまったが、今なら背中に追いつくことはできなくても、同じ物を見ることくらいはできるだろうか。 「―――あなたは今でも僕の師ですよ、閣下」
作者:ID:g42+5/qO ---- 世界の果てにあると伝えられる一軒の館がある。 そこに行こうと思っても決してたどり着けないが、例えば学者が研究上の問題で行き詰ったとき、画家が満足のいく作品を仕上げられない自分に絶望しかけたとき、 学生が自分の修めようとしている道のあまりの遠大さに途方にくれた時などに、ふと迷い込むことがあるという。 この世のあらゆる知が収められていると言っても過言では無いかもしれない巨大な図書館。 ぎっしりと本が詰まった本棚が規則性も無く乱雑に並んでいる様は、さながら本の森か、あるいは海か。 掃除をする者などいるはずもないのに、本も床も埃一つ付いていない。 そんな海の底、四方を本棚に囲まれた床に上にこの館の主である男が座っていた。 青年にも見えるし、老人にも見えなくも無い。国籍も不肖なら、外見からその気質を覗うこともできない。 そんな圧倒的に無自己な男の周りには、二十を超える本が広げられていた。男はそれを全て同時に読んでいるらしく、常にどれかのページを捲っている。 本に印刷されている言語は日本語・英語からドイツ語やフランス語、さらにはヒンドゥー語やスワヒリ語まで様々だったが男は何の不便も無く全ての本を黙々と読み進めていた。 自分の一番近くにある本のページを捲っていた男の手が、「その気配」を感じてふいに止まる。 それと同時に、男の背後から少女の声がした。 「相変わらず非生産的なことをしておるのう、柏木」 振り向いた男は、本棚の間に立つ少女の姿を認めて微笑んだ。 「お久しぶりです、閣下」 敬意を込めた口調では無かった。少女のほうももちろんそれを察したが、別段気にも留めず話を続ける。 「さて、今のお前はどの名で呼ぶべきかな」 「さあね」 柏木は首を傾げて見せた。 「ついさっきまでは『轍』として仕事をしていたので、その名で呼ばれるのがしっくりくるが……こうして資料を漁る行為は、『夕』としての仕事のためである部分が多いから、 自分の気持ちとしては今は『柏木夕』だな」 「他人の創作物などに刺激を受けないと何も作れぬ創作者は三流以下だ」 「ああ、僕は知っての通りの三流作家だからな」 それを聞くと、閣下と呼ばれた少女は面白く無さそうに肩を竦める。 「全く、皮肉の一つも通じないとは相変わらず面白みの無い奴だ。お前と私では、何もないところから全く新しい物を生み出す才では私のほうが優れているが、 すでにあるものを吸収し整理して別のものに組み立て直す才ではお前のほうが勝っているだろうよ」 柏木にしてみればそちらのほうがよほど皮肉に聞こえるのだが、そうではないことはその顔を見れば分かる。 彼女は自分のことを褒めているのだ。そう思うと嬉しかったが、顔には出さなかった。 「それにしても、お忙しい柏木先生がこんなところで油を売っていていいのか?」 「白々しい。ここは時間の流れの外にある空間であることくらいは知っているだろうに。僕もたまには息抜きをしなければ流石にもう体が持たない」 「そちらこそ白々しい。お前も、もはや肉体的な年齢などを気にするような存在ではなかろうに」 お互い会った時には必ずするような冗談を言い合った後、柏木はやや真剣な顔になって尋ねた。 「それで、用件は?」 「なに、大したことではない。もしや、うちの馬鹿弟子の行方を知らぬかと思ってな」 その口ぶりから、誰のことであるかは即座にわかった。 「倉刀君、いなくなっちゃったの?」 「今朝方から姿が見えぬ。あの馬鹿弟子が姿を眩ますのは一度や二度ではないが、今度ばかりは近辺を探しても姿が見えん。 もしやお前の工房か書斎にでも逃げ込んでいるのではないかと思ってな」 「そりゃあ生憎だ。僕はあの子にはそこまで好かれていない」 肩を竦めて笑う柏木。 「悪いけど、姿は見ていないし思い当たる所もないな。腹が減ったら帰ってくるんじゃないか?」 「あやつは意地だけは一人前じゃからのう」 不肖の弟子に対して諫言辛句を浴びせ続ける少女だが、その口調と表情に注目するまでも無く、柏木には手に取るように分かっていた。 彼女は、心の中の誰にも見えない場所で、本気で弟子のことを心配しているのだ。 「つまり、出て行った原因にもその意地の強さが関係しているわけだ?」 図星、とばかりに少女は頷く。 「あやつめ、ほんのちょっとキツめに言ったくらいのことでこんな真似をしおって。 そりゃあ、いや少しばかりは言い過ぎたかもわからんが……いや、このくらいで音を上げているようでは困るのだ!!」 怒りも露な少女の姿を見て、柏木は苦笑する。この件についてはまだまだ一悶着起こりそうである。 苦笑しながら、柏木はいまやいずこにいるとも知れない倉刀について静かに同情した。彼と師との間に何があったのかは知らないし、 知るつもりも無いが、あの彼がこんな大それたことをするからにはそれなりのことがあったのだろう。 「全く、そもそもこっちはそれほど本気で言ったわけではないのだが」 少女は腰に手を当てて頬を膨らませている。そうしていると本当にただの少女のようで、「閣下」と呼ばれる神のごとき存在には見えない。 「―――恐ろしくは無いのか?」 ふと、そんな言葉が口をついて出た。 「ん?」 と怪訝な顔を向ける少女。自分としてもなぜそんな言葉が出たのかわからないくらいだったが、出てしまったのなら仕方が無い。続けてみせよう。 「あんたの何気ない一言で、彼の心は恐らく酷い傷を負った。傷つける者が一人であるならまだいいが、あんたの本は世界中の誰もが読む。あんたの作品は世界中の誰もが目にする。 本の中に何気なく書いた一言が、大勢の人々の人生を変えてしまうことだってある。実際、僕のところに来る手紙の文面のほとんどは版で押したように同じだ。 『この本を読んで救われました』 『あなたの作品に触れて世界観が変わりました』 僕は、それが恐ろしい。何気なく書いた一冊の本が世界さえも変えてしまう。僕やあんたが授かったのはそういう才能だ」 「ならば書かなければいいではないか」 「それはできない。僕は創作者だ。自分が正しいと思ったことを書き、美しいと思ったものを作るんじゃなかったら、創作者には何も無いんだ」 本の呼吸音が聞こえそうなほどの沈黙が降りた。 その沈黙の後、少女が口を開く。 「なるほど、それがお前が自分の作品について語る理由か?」 「少なくとも、その一つではあるな。僕は僕の作品の価値を知っている。が、それだけを世界に向かって投げつけて、それで良しとすることはできない」 そのせいで悲しむ人が出るのなら、そのせいで諍いや誤解が起こってしまうのなら、完成品である作品に余分な言葉を添えることも否とはしない、と。 それが柏木の姿勢だった。 作品のみで語ることのみを是としたハルトシュラーという名の作家とは、全く違う理想。 それを今この場で語ったことについて、どういう意味合いを見出したのか。 柏木と相容れない矜持を持つ少女はふん、と鼻を鳴らした。 「ふん、恐ろしい、か。そりゃあ恐ろしくないかと言われればウソになるかもしれんが……まあ良い。お前のそういうところは嫌いではない」 「好きでもなさそうだな」 「当然だ」 もとより答えを求めての問答ではない。はっきりとした答えを得られなかったとしても柏木には不満は無かった。 「すまんのう、思いの他長居してしまった。仕事も詰まっておろう」 「今日はこの後『柏木旭』として雑誌の取材受けて、その後『柏木巡』として打ち合わせ。ああそういや、『柏木渉』としての締め切りも今日だったな」 「聞いただけで吐き気がするのう」 本当に胃がもたれたような顔をしながら、少女は男に背を向けた。 「邪魔したのう。もしあやつがここに来るようなことがあれば知らせてくれい。それでは失礼する」 そう言い残して、気のせいか、少し早足で本棚の間を歩いて去っていく。 その背中を見送りながら、柏木は少し寂しそうな、それでいて清々しそうな顔をした。 かつて、あの背中を追いかけた時があった。 あの背中に追いつこうとして、追い抜こうとして、同じ道を行こうとしたことがあった。 今となってはもう過去形でしか語れない決意。 最早胸に抱く矜持も違えてしまったが、今なら背中に追いつくことはできなくても、同じ物を見ることくらいはできるだろうか。 「―――あなたは今でも僕の師ですよ、閣下」 ----

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