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*序  そして。  どれほど長い間俯いていただろうか、少年はやがて何かに促されたよう伏せていた顔をゆっくりと上げた。  その広大な空間には、彼以外命のあるものは何一つなかった。耳鳴りがするぐらいの静寂が、いっそ不気味であった。  少年の年は、15を過ぎるか過ぎないかといったばかりか。小柄ではあるが、もろ肌を脱いだ上半身は一部の隙間なく鍛え上げられ、鋼のような筋肉がみっしりと詰まっている。  整った顔立ちだが、その相貌はどこまでも冥かった。苦渋の刻まれた眉間がその子供っぽい容姿をいっそう陰惨なものに変えている。  規則正しく編まれた長い、蜂蜜色の髪を後ろに流している。つやを失ったそれは、いつもよりくすんで見えた。  額と両腕、それに胸部の中央には円を模した小さな錬成陣が刻まれている。赤黒いそれは禍々しいほど露だった。 「親父の言ったことが本当なら、今ならアルの肉体も魂も、門の内側にある」  低く、かすれた声で呟きが漏れる。  嘆きにも似た悔恨は、尾を引いて伸び、かすれ、やがて闇に消えた。  磨きぬかれた鏡面の如き床の上に描かれた練成陣の上に一人立つ。  孤影が、寂しげに揺れた。 「命の代価は他にない。オレの全てを捧げても、ムダかもしれない」  据え付けられた、周囲を照らすオレンジ色の照明が鈍く瞬く。少年、零れるように漏らした。 「でも」  ムダでもかまわない。このままでは許せない。どうして許せない。何の為に今日まで生きていた。どうしてやり抜かなくてはならないのか。それが贖罪なのか。本当に全てがやり直せると思っていたのか。  弟との思い出が、少年の心を疾駆するように過ぎ去っていく。表情を変えない顔、温度を亡くした身体。  それでも、今までの事が全てだった。  求めていたものが、どんなものであっても。  自分たちは、偽らず、全てを受け入れる覚悟をしていた筈だから。  兄さんと。いつでも、呼んでくれた。  ならば、成すべき事はたったひとつだけ。欲しかったもの、取り戻したかったものは、いつだってたったひとつだったからだ。 「――お前が消えちまうことなんてないんだ。戻って来い、アル」  願うように、祈るように、両手が打ち合わされる。一は全。全は一。溶け合った両手は円を描き、それは即ち無限の宇宙を指す。  身体の練成陣が瞬き始めると同時に、足元全てが青白く渦を巻く。  眩いばかり光が、辺り一面を覆い、やがてエドワード・エルリックの全てをその中へと溶かし尽くした。  ふ、と。唇に何かあたたかいものが触れた。 (……カラダ、だりぃ)  エドワードはゆっくりとまどろみの皮膜を破りながら、意識を覚醒し始める。周りで何かざわめいている。上手く聞き取れない。聴覚と大脳の接続が円滑でない。ともすれば、消え落ちそうな意識の中で、確かにその声だけは、聞こえた。 「できた。ゼロのわたしにも」  今度こそ。  エドワードは、両目をこじ開けるとその声の主を仰いだ。  地獄の底を焼き付けたような、真っ暗な空を背景に、一人の少女が微笑んでいた。桃色がかった長い金髪。 「ちょっと、おい?」  少女は微笑むと同時に仰向けのままのエドワードへと力尽き果てたように倒れこんでくる。彼は半ば戸惑いつつも彼女を抱きとめると上半身を起こし、辺りを見回した。  燃えていた。  遠景に見える石造りの重厚な城は、紅蓮の炎に舐め尽くされ、最期の時を迎えようとしていた。海原のように広がった草原のそこかしこには、中世の騎士さながらの軍兵が我が物顔に旗を押し立てて走り回り、そこかしこで殺戮を繰り返している。  狂ったような歓声と怒号。  戦いは終着を迎えつつあるのだろうか、勝利のいさおしを高らかに歌い上げるのは、狩場のごとく戦場を往来する寄せ手に見えた。  ぎしりと、エドの右腕が軋んだ。 「機械鎧!」  取り戻した、右腕と左足。  気づけば、「フラメルの十字架」を背負った真紅のコートもかつてのままだ。  くたりと、倒れこんだまま自分の腕の中で眠る小さな少女。  時代がかったイカレタ世界。 「まったく、どいつもこいつも」  エドは少女を抱きかかえたまま立ち上がると、自分を取り囲んでいる甲冑を着たならずもの達に視線を走らせた。言葉は何一つ理解できないが、明らかに激昂している。そして、もうひとつ確かなこと。  こいつらが狙っているのは、明らかにこの手の中の女である。  隊長格の杖を持った男が、ゆっくりとエドと少女を指し示した。敵は五人。それぞれが大振りの鉞や長剣を振り上げ、じりじりと包囲の輪を縮めて来る。白金の意匠を凝らした兜。視線だけが煮えたぎるように鈍く光っている。  エドは、少女を胸の位置から放すと、両手を高々と天に掲げた。  同時に足元で、ふぎゃと、猫の断末魔に似た声が聞こえたが気にしない。降参とその行為を見たのだろうか、明らかに彼らの殺気が削がれた。  ここが何処であろうと。自分が何故生きていようと。  そう簡単には死ねない。  エドワード・エルリックには成すべきことがある。 「とりあえず、ここがオレに用意された地獄であろうが、まだ終わるわけにはいかねーんだよっ!!」  錬金術師の裂帛の気合と共に、辺りの軍兵が弾かれたように殺到した。    賢者の石。  それを手にしたものは等価交換の原則から開放される。  何かを得るために代価を必要とする事もない。  オレ達はそれを求め、――手に入れた。    鋼の錬金術師『外伝』トリステイン戦記
*序  そして。  どれほど長い間俯いていただろうか、少年はやがて何かに促されたよう伏せていた顔をゆっくりと上げた。  その広大な空間には、彼以外命のあるものは何一つなかった。耳鳴りがするぐらいの静寂が、いっそ不気味であった。  少年の年は、15を過ぎるか過ぎないかといったばかりか。小柄ではあるが、もろ肌を脱いだ上半身は一部の隙間なく鍛え上げられ、鋼のような筋肉がみっしりと詰まっている。  整った顔立ちだが、その相貌はどこまでも冥かった。苦渋の刻まれた眉間がその子供っぽい容姿をいっそう陰惨なものに変えている。  規則正しく編まれた長い、蜂蜜色の髪を後ろに流している。つやを失ったそれは、いつもよりくすんで見えた。  額と両腕、それに胸部の中央には円を模した小さな錬成陣が刻まれている。赤黒いそれは禍々しいほど露だった。 「親父の言ったことが本当なら、今ならアルの肉体も魂も、門の内側にある」  低く、かすれた声で呟きが漏れる。  嘆きにも似た悔恨は、尾を引いて伸び、かすれ、やがて闇に消えた。  磨きぬかれた鏡面の如き床の上に描かれた錬成陣の上に一人立つ。  孤影が、寂しげに揺れた。 「命の代価は他にない。オレの全てを捧げても、ムダかもしれない」  据え付けられた、周囲を照らすオレンジ色の照明が鈍く瞬く。少年、零れるように漏らした。 「でも」  ムダでもかまわない。このままでは許せない。どうして許せない。何の為に今日まで生きていた。どうしてやり抜かなくてはならないのか。それが贖罪なのか。本当に全てがやり直せると思っていたのか。  弟との思い出が、少年の心を疾駆するように過ぎ去っていく。表情を変えない顔、温度を亡くした身体。  それでも、今までの事が全てだった。  求めていたものが、どんなものであっても。  自分たちは、偽らず、全てを受け入れる覚悟をしていた筈だから。  兄さんと。いつでも、呼んでくれた。  ならば、成すべき事はたったひとつだけ。欲しかったもの、取り戻したかったものは、いつだってたったひとつだったからだ。 「――お前が消えちまうことなんてないんだ。戻って来い、アル」  願うように、祈るように、両手が打ち合わされる。一は全。全は一。溶け合った両手は円を描き、それは即ち無限の宇宙を指す。  身体の錬成陣が瞬き始めると同時に、足元全てが青白く渦を巻く。  眩いばかり光が、辺り一面を覆い、やがてエドワード・エルリックの全てをその中へと溶かし尽くした。  ふ、と。唇に何かあたたかいものが触れた。 (……カラダ、だりぃ)  エドワードはゆっくりとまどろみの皮膜を破りながら、意識を覚醒し始める。周りで何かざわめいている。上手く聞き取れない。聴覚と大脳の接続が円滑でない。ともすれば、消え落ちそうな意識の中で、確かにその声だけは、聞こえた。 「できた。ゼロのわたしにも」  今度こそ。  エドワードは、両目をこじ開けるとその声の主を仰いだ。  地獄の底を焼き付けたような、真っ暗な空を背景に、一人の少女が微笑んでいた。桃色がかった長い金髪。 「ちょっと、おい?」  少女は微笑むと同時に仰向けのままのエドワードへと力尽き果てたように倒れこんでくる。彼は半ば戸惑いつつも彼女を抱きとめると上半身を起こし、辺りを見回した。  燃えていた。  遠景に見える石造りの重厚な城は、紅蓮の炎に舐め尽くされ、最期の時を迎えようとしていた。海原のように広がった草原のそこかしこには、中世の騎士さながらの軍兵が我が物顔に旗を押し立てて走り回り、そこかしこで殺戮を繰り返している。  狂ったような歓声と怒号。  戦いは終着を迎えつつあるのだろうか、勝利のいさおしを高らかに歌い上げるのは、狩場のごとく戦場を往来する寄せ手に見えた。  ぎしりと、エドの右腕が軋んだ。 「機械鎧!」  取り戻した、右腕と左足。  気づけば、「フラメルの十字架」を背負った真紅のコートもかつてのままだ。  くたりと、倒れこんだまま自分の腕の中で眠る小さな少女。  時代がかったイカレタ世界。 「まったく、どいつもこいつも」  エドは少女を抱きかかえたまま立ち上がると、自分を取り囲んでいる甲冑を着たならずもの達に視線を走らせた。言葉は何一つ理解できないが、明らかに激昂している。そして、もうひとつ確かなこと。  こいつらが狙っているのは、明らかにこの手の中の女である。  隊長格の杖を持った男が、ゆっくりとエドと少女を指し示した。敵は五人。それぞれが大振りの鉞や長剣を振り上げ、じりじりと包囲の輪を縮めて来る。白金の意匠を凝らした兜。視線だけが煮えたぎるように鈍く光っている。  エドは、少女を胸の位置から放すと、両手を高々と天に掲げた。  同時に足元で、ふぎゃと、猫の断末魔に似た声が聞こえたが気にしない。降参とその行為を見たのだろうか、明らかに彼らの殺気が削がれた。  ここが何処であろうと。自分が何故生きていようと。  そう簡単には死ねない。  エドワード・エルリックには成すべきことがある。 「とりあえず、ここがオレに用意された地獄であろうが、まだ終わるわけにはいかねーんだよっ!!」  錬金術師の裂帛の気合と共に、辺りの軍兵が弾かれたように殺到した。    賢者の石。  それを手にしたものは等価交換の原則から開放される。  何かを得るために代価を必要とする事もない。  オレ達はそれを求め、――手に入れた。    鋼の錬金術師『外伝』トリステイン戦記

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