鳴沢美佐子 温泉編3


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……賑やかな団体客に続いてバスを降り、その温泉旅館の前に立った時。
(……とうとう、来てしまった)
と、内心に呟いたのは、友美ではなく芳樹の方だった。
細い目には、臆病な色が揺れる。
しかし、立ち竦む芳樹を尻目に、小さな荷物を提げた友美は躊躇いなく足を踏み出して。
「……どうしたの?」
動こうとしない芳樹に、怪訝そうに声をかけた。
「行きましょう」
「う、うん」
促されれば、芳樹も重い足を運ばざるをえない。
この、ひどく不釣合いに見えるカップルの、主導権を握っているのは、
美しい少女の方だった。いまでは。

残雪を踏みしめてエントランスへと向かう友美の足取りには迷いがなく。
その横顔は、冷たく引き締まって。
芳樹には、その瞳にこもる感情の性質が掴めない。だから、不安になる。
やはり、同行を許したのは間違いであったかと、改めて後悔の念がわいた。
すっかり自分を子分扱いしている蛙田からの呼び出し。
そもそも、芳樹としては気乗りがしなかった。 

山中の温泉地で繰り広げられるだろう痴情の光景を見ることにも、
さほど気を引かれなかった。
それより、一泊二日を拘束されて、友美と逢えないことのほうが辛かった。
しかし、蛙田には共犯者としての負い目があり、念を押されて持参した新型のカメラも、
その悪事に手を貸した謝礼で購入したという義理があって、断れなかった。
そんな忸怩たる思いのせいもあったろう。遠出の理由を友美から訊かれたときに、
つい口を滑らせてしまった。
その途端、友美の眼の色が変わった。
自分も同行すると、強硬に主張してきかなかった。
意外だった。むしろ、そんな場所には絶対に行きたくないと考えるだろうと思ったから。
芳樹にしても、友美を連れていくなど、考えもしないことだった。
しかし、友美は頑として譲らず。
現在の芳樹は、友美の意志には逆らうことは出来ない。そういう関係になってしまっている。
最後の望みをかけて、スポンサーである蛙田に連絡してみた。
しかし、返答は半ば予期した通りで。
『面白いじゃねえか』
その一言で決まってしまった。
そうして、ふたりはこの朝、バスで八十八町を出発したのだった。 

仲居に案内された部屋は、ごく普通の格式の和室だった。
ふたりで泊まるには充分な部屋だったが。蛙田の贅沢趣味を知っている芳樹には、
少しアテが外れた気がした。
仲居が去り、ふたりきりになると、しばし沈黙がとざした。
大きな卓を挟んで友美と対峙した芳樹は、なんとも落ち着かない気分で、
つい正座してしまった尻をモゾつかせた。
友美は、室内や窓からの景色を見まわしていたが。
やがて、視線を芳樹に合わせて、
「……私、男のひととふたりきりで旅行するのは初めて」
今ごろ、思い至ったかのようにそう言った。
「ぼ、僕も初めてだよ。女の子と、ふたりきりで旅行するのは」
慌てて、芳樹が追従する。こちらは、まったく言うまでもないようなことだったが。
とにかくも、芳樹はホッと安堵の息をついた。
出発以来、ほとんど口を開かず、自分の世界に入りこんでいた友美が、
ようやく自分に意識を向けてくれたからだ。
張り詰めていた空気も、いくぶん和らいだ気がする。
「お茶、入れるわね」
しとやかな所作で、茶をいれる友美の手の動きに芳樹は見惚れて。
どうぞ、と差し出された熱い湯呑を、照れくさい思いで受け取って。
「美味しいよ」
一口ふくんで、やけに熱心に言った。実際、さほど高級ではないはずの
煎茶が、極上の甘露と感じられたから。
そんな芳樹に、フッと柔らかな笑みをかけて。
自分も上品に湯呑を口に運んだ友美は、またすぐに沈思の中へ入ってしまったけれども。
それでも芳樹は、この穏やかなひとときに幸福を感じて。
(悪くないなあ……)
げんきんに、この旅への心象を変えてしまったのは、彼らしい単純さのあらわれではあったろう。 

そもそも。
このように穏やかな時間を共有できるような関係ではなかったはずなのだ。
このふたり、友美と芳樹は。
始まりは、芳樹の脅迫だった。友美の盗撮写真をネタにしての。
生来の潔癖さとプライドの高さゆえに、友美は芳樹の非道な要求を受け入れてしまった。
純潔を奪われ、その後もズルズルと関係を続けさせられて。
無論、最初のうちは友美の表情には絶望と苦痛だけがあった。
芳樹への嫌悪を隠そうともせず、ただ固く強張らせて、凌辱が終わるのを待つだけ。
貪る側の芳樹には、贄の反応を顧る余裕はなかった。
彼にとっても、それは初めて触れる性の世界であって。
その対象として、友美の瑞々しい肢体は眩すぎた。
芳樹は友美に溺れた。
連日のように友美を呼び出しては、青臭い劣情をぶつけた。
それは常に、芳樹の側の一方的な昂ぶりを鎮めるためだけの行為。
不毛な関係、であるはずだった。
だが。
すべてを諦めてしまったかのような従順さを示して。
芳樹の性急で稚拙な行為を受け入れ続けるなかで、友美の中にどのような
変化がおこったものだろうか。
……あるいは、情事の合間に芳樹が話して聞かせた、竜之介と美佐子のことが
友美の心理に影響を及ぼしたのかもしれないが。 

芳樹が、そのことを友美に教えたことには、深い理由はなかった。
なにも考えていなかったということだろう。
友美は特に反応を示すこともなく黙って話を聞いていた、と芳樹の目には映ったが。
本当は、そうでもなかったのだ。
竜之介と美佐子が、その立場や年齢差を越えて、男女としての想いを結びあったこと。
その秘密が、美佐子に恋慕する男の知るところとなり、脅迫を受けた美佐子が
男の愛玩物となっていること。
それらの事実を知らされた時、友美の虚ろだった瞳には強い感情が燃えたっていたのだった。
そして。友美に変化があらわれた。
美佐子と竜之介のことを聞かされた、翌日のこと。
その日も、芳樹の自室に連れこまれて。友美は全裸の姿で、ベッドの上に
膝を抱えるようにして座っていた。
そのさまを、芳樹がファインダー越しに見つめていた。
芳樹は特別歪んだ性的嗜好を持ってはいない。
実際の行為自体はいたって、ノーマルで単調だった。
欲望自体も、特に強いわけでもなかった。
ただ、唯一の特殊性といえるのが、撮影への執着だった。
友美との行為も、いつもカメラを構えることから始まった。
着衣の友美から映し始めて。一枚ずつ脱いでいくさまを記録して。
そうすることが、芳樹にとっては最高の前戯であったのだ。
毎回数本のフィルムを消費して。しかし、芳樹は決して飽きることはなかった。
だが。そんな、お定まりとなった作業の中、この日の芳樹は困惑していた。
覗きこんだファインダーの中、見飽きることのない美しい裸体を晒して。
友美が、こちらを見つめている。 

いつもは、決してカメラの方を見ようとはしなかった友美が、
この日は逆に、撮影開始からずっと目線を外そうとはしない。
静かな表情で。レンズ越しに芳樹と視線を合わせている。
そして、友美の変化は、それだけではなかった。
「……ねえ、芳樹くん」
「な、なに?」
不意に話しかけられて。芳樹はギクリとカメラを下ろして、上擦った声で聞き返した。
友美の方から話しかけるなど、ほとんどなかったから。
「そんなに……何枚も撮って、飽きない?」
「え?」
「もう、たくさん撮ったじゃない? 私の写真」
責めるふうではなかった。ただ単純に不思議そうに、友美は訊いた。
「あ、飽きないよ。まだまだ撮りたりないくらいだよ」
早口に、芳樹は言った。それはまったく真情からの言葉だった。
「そうなの?」
「と、友美の身体、綺麗だから。だから、飽きるなんてこと、絶対ないよ」
それもまた、芳樹の偽らざる気持ちだった。
「……そう」
友美は、特に喜びもしない。それは、ある意味当然のことだろうが、
逆に嫌悪や忌避の色もなかった。
友美は、眼を伏せて。しばし、沈黙の中に考えこんで。
そして、緊張している芳樹へと、再び視線を合わせた。
「……芳樹くん」
「な、なに?」 

「私のこと、好き?」
「えっ!?」
唐突な問いかけに、一瞬芳樹は呆けて。
「す、好きだよ、もちろん」
すぐに、熱をこめて言いきった。
「私だけが、好き?」
「う、うん。友美だけが好きだよ」
力をこめて、頷く芳樹。
それもまた、いまでは真実だった。
芳樹が友美に狙いをつけたのは、つけこむ隙を見つけたからだった。
友美は芳樹が屈折した欲望を向ける美少女のうちのひとりに過ぎなかったのだ。
しかし、無理やり奪った少女の肉体は、芳樹を魅了しつくして、
いまでは、友美以外の女のことなど考えられなくなっていた。
だから。
「じゃあ……もう、他の女の子の写真は撮らないで」
「うん、もう友美以外の子は撮らないよ」
友美の要求にも、あっさりと頷いてみせた。
実際、友美との関係が出来てからは、盗撮行為はしていなかった。
そんな暇もないし、気も起こらなかったのだ。
だが、言質を取った友美は、芳樹の更正を願ったわけではないようだった。
芳樹を見据えた眼に、その表情に浮かんでいたもの。
友美は、忠誠を求めたのだ。芳樹に対して。 

芳樹の宣誓に、一応の満足を得たのか。
友美は、表情をやわらげて。ほのかに笑ってみせた。
そして、その薄い笑みに見惚れる芳樹の前で、
揃えていた両脚をゆっくりと開いていった。
引き締まった両腿の間に、女の部分が現れ出る。
白い肌の上に、黒い翳りの彩りはない。
かすかな羞恥の色が、友美の頬を染める。
それでも友美は、息を呑む芳樹の眼前に、秘めやかな場所を開陳して。
そっと、片手を無毛の丘のあたりにあてがって。
「……私の秘密を知っているのは、芳樹くんだけ」
囁くように、そう告げた。
「友美の、秘密……」
芳樹は、ただただ友美の言葉を復唱するだけになっていた。完全に友美に呑まれて。
「そう。ふたりだけの秘密よ」
「ふたりだけ……僕と友美だけの……」
芳樹は背筋に甘い痺れを感じて。
「と、友美……友美」
フラフラと友美に近づくと、倒れるように抱きかかった。
「キャッ……」
重い体に圧し掛かられた友美見が、小さく声を上げた。
「あ、ご、ごめんよ」
芳樹はうろたえて、両手で上体を支え起こした。無理じいに純潔を奪った時にも
吐かなかった、友美への気遣いを口にしながら。 

その太い首に、白くしなやかな腕がからみついた。
「いいのよ」
友美が微笑む。
「友美ぃ」
間近に、その笑顔を見た芳樹の意識は霞みがかって。
震える唇で、友美の口を求めた。
従順に……いや、寛容に友美はそれを受け入れて。
まだ互いにたどたどしいながら、熱情のこもった長いキスが交わされて。
口をほどいた時には、芳樹の昂ぶりは切羽つまって。
慌てた動きで、野暮ったいトレーナーを脱ぎ捨て、ジーンスを引き下ろした。
友美の手が、それを手伝った。
芳樹が、その肥満した裸身を晒して、大きなブリーフを脱ぎ捨てると、
体型同様にズングリとした肉根は、極限まで張りきって。その幼い色の先端には、
先走りを吹きこぼしていた。
しかし、そこで芳樹は、彼にしては精一杯の自制を働かせて。
友美の秘裂に、太い指先を差しこんで、状態を確認する。
しっとりと、潤んでいた。
「……フッ……あ……」
おずおずと指を動かせば、友美の口から、小さく甘い声が洩れた。
初めて引き出した女体の反応に、芳樹の胸には友美への愛しさが溢れて。
もっと、その可愛い声が聞きたくて、懸命に技巧をこらす。
「あ、アッ……よ、芳樹、くん……アァッ」
友美は、これまでが嘘のように、その若い肉体の鋭敏さを露わにして。
朱をのぼらせた細い首をクナクナとふって、蕩けるような声を断続させる。 

(ぼ、僕の指で、友美が……こんなに)
サラサラとした熱い滴りを指に感じて。芳樹は震えるような感動を味わっていた。
これこそが、本当に情を交わすという行為なのだと、いまさらながらに気づいて。
「と、友美。キモチいい?」
そう訊いた声も、ひどく真剣な響き。
コクリと頷いた友美が、潤んだ眼を薄く開いて。
「もう、いいの……来て」
「う、うん」
ゴクリと固い唾を飲みこんだ芳樹が、腰を進め、握りしめたペニスを友美の中心へとあてがう。
「い、いくよ、友美」
「……優しく、してね」
「う、うん」
いまだ、わずかな怯えを含んだ友美の乞いは、この時の芳樹に対しては
言うまでもないことだった……。 

それ以来、芳樹の友美への対し方は一変した。
ひとことでいえば、下にも置かぬという恭しいものになったのだった。
暗い自室で身体を求めるだけだった逢瀬は、明るい陽の下での活動に変わった。
友美が観たい映画、友美のショッピング、友美が行きたい美術展……。
友美の意志を、すべての中心として。
当然のことだ。主は友美であり、友美こそが女王であり、
芳樹は彼女に忠誠を誓った下僕にすぎないのだから。
なにより、芳樹自身が、そのように心を尽くし振舞うことに、この上ない満足と
幸福を感じていた。
友美は、静かに芳樹の忠勤を受け入れた。
ことさらな尊大さを示す必要もなく。ごく自然に玉座へと座ったのだった。
芳樹への態度は、穏やかで落ち着いたもので、芳樹の入れこみようとは温度差があったが。
しかし、その瞳から翳りは消え、柔らかな笑みを浮かべることが多くなったから。
傍目には、ふたりは睦まじい若いカップルとしか見えなかった―あまりにも不釣合いな容姿を除けば。
夢中な芳樹にとって、周囲の反応など、どうでもよいことだった。
自分と、この理知的な美しさを持った少女が、相思相愛の恋人同士となったこと。
その幸福だけを噛み締めて過ごす毎日だった。 

……いまもまた、会話もなく、ただ差し向かいで茶をすするだけの時間に、
まったりとした幸せを感じて。
そして、ようやく旅館の一室にふたりきりという状況に思い至って、
淫靡な期待が芳樹の中で蠢き出す。
ふたりの関係の変化を、もっとも端的にあらわしているのが、情事のありようだった。
以前のような一方的な蹂躙ではなく。
いまだ性に未熟な男女が、協力しあって快楽の秘密を紐解いていく―そんなかたちへと。
優しく慈しみあうような戯れの中、少しづつ少女から女へと変貌していく友美の肉体は、
芳樹にとって汲めど尽きぬ魅惑の泉であった。
その時の友美の上気した貌、可愛い声を思い出しただけで、股間が強張ってくる。
「……ゴホン」
意味もなく咳ばらいをして、芳樹は友美の表情をうかがった。
友美は気づかず、伏せた視線をとらえることが出来ない。
仕方なく芳樹は、湯呑を持ったまま卓上に置かれた友美の繊手へと目を転じた。
そろそろと手を伸ばして、握るタイミングを見計らう。
しかし、この場面では、芳樹に時間は与えられていなかった。 

「本日は、ようこそいらっしゃいました。当旅館の女将、永島佐知子でございます」
三つ指ついての丁寧な挨拶も、顔を上げた佐知子の臈たけた美貌、艶やかな笑みにも
芳樹の心は動かされなかった。
友美との、ふたりきりの時間を邪魔された、という思いしかない。
だいたい、アゴアシつきの宿泊だから、あまり丁重にされても困ってしまう。
「ああ、どうも……」
とか、なんとかモゴモゴと呟いて、救いを求めるように友美を見た。
「………………」
友美は、ジっと佐知子を見つめていた。観察するような目で。
奇妙な間合い。
芳樹は、ますます居心地の悪さを強めたが、
「蛙田さまが、お待ちです。ご案内いたしますわ」
佐知子は柔和な表情を崩さず、友美の不躾ともいえる視線も軽く受け流して、
スッと腰を上げた。
芳樹は、ためらった。
ここまで来て、行かない、とも言えない状況だが。
でも、友美を伴うのは、と……。
しかし、ここでも、
「行きましょう」
さっさと立ち上がったのは、友美であった。視線は佐知子に向けたまま。
その横顔には、先ほどまでと同じ、固い決意の色があった。
「あ……」
結局、芳樹は慌てて後に続くしかなかった。 

先導する佐知子の足取りには、無論迷いもない。
他の宿泊客とすれ違えば軽く小腰を屈めて頭を下げ、忙しげにいきかう
従業員には目顔で答える。
そんな挙動のひとつひとつに身についた優雅さがある。
しかし、それを眺める芳樹には、感心するような余裕はなかった。
歩みは重く、遅れがちになってしまう。
友美は、佐知子のすぐ後について歩いている。
その背から伝わる雰囲気には、声をかけるのを躊躇わせるものがあった。
「…………フウ」
芳樹は不安を重苦しい溜息にして、トボトボとふたりの後を歩んだ。

友美は前方だけを見据えていたから、芳樹の暗い表情には気づかない。
一歩先を歩む佐知子の、細い首に視線は向けられている。
豊かな髪を結って、白いうなじを露わにしているのだが。
数鬢のほつれ毛が垂れて、いっそうの艶めかしさをかもし出している。
まさか故意の演出ではあるまい。急いで髪をまとめたということだろう。
そんな綻びは髪型だけではなく、身に馴染んでいるはずの和服の着こなしも、
わずかな崩れが見てとれる。
どこか、しどけないのだ。それを友美は部屋で会った時から感じとっていた。 

しかし、友美の佐知子への関心は、そこで途切れる
この女将がどんな女性だろうが、どうでもいい。
たとえ彼女も、この先で待っているものとなにがしかの関係があろうと。
それは友美の興味の埒外であった。
友美が用があるのは、ゆくての部屋にいるはずの女性だけだった。
鳴沢美佐子。
彼女に会うためだけに、友美はしぶる芳樹を押しきって、この旅行に同道したのだった。
(……美佐子…さん)
その名を胸に呟く友美の表情は険しさを増して。
何度となく繰り返した思索を、また一度たどり返していった。 

……はじめて、その事実を知らされたのは。
友美が、突如ふりかかった悪夢のような災厄に、ただ悲嘆と絶望にくれていた頃だった。
息を殺して耐えた蹂躙が終わった後に。
気まずい空白を埋めようとしてか、芳樹が口にした話。
美佐子と……竜之介のこと。
にわかには、信じられなかった。
何故、そこで美佐子の名前が出るのか理解できなかった。
しかし、友美の受けた衝撃に気づかない芳樹は、ペラペラとその後の
異常な展開まで喋った。その秘密をタネに美佐子が脅迫されて、
身体を奪われたということ。竜之介にも隠したまま、ズルズルと男の
言いなりになっているということを。
それは、ますます現実味のない絵空事にしか聞こえなかった。
だが、芳樹がそんな作り話をする理由もなく。
逆にその異常さのゆえに、友美はそれを事実なのだと納得した。
自分自身、いまだに信じられないような酷い現実の中に投げこまれている
友美でもあったから。
平穏な日常、などというものが、壊れる時にはどれほど呆気ないものか
思い知らされてしまっていたから。 

そして、それを事実としてのみこめば。
友美の中で、爆発的に燃え上がる感情があった。
紅蓮。
だが、胸を焦がす情動の向かう先は、芳樹や、美佐子を凌辱したという
見知らぬ悪漢ではなかった。
友美の、かつて経験したことのない烈しい怒りは、
美佐子と竜之介に対するものだったのだ。


竜之介が好きだった。
いつから、などと明確には覚えていないほど遠い頃から、
幼なじみの少年に想いを寄せてきた。
他の男の子に心を惹かれることなど一度もなかった。
本当に、ほんとうに竜之介のことが好きだった。
その気持ちを、無理に隠してきたつもりはない。
けれど、最後の一歩を踏み出す勇気は持てずにきた。
それが、あまりに大事な想いだったから。
いつか……伝わることを祈りながら、長い長い時間を過ごしてきた。 

高校生活が終わりに近づいて。
このまま、彼と道が離れていくことだけは耐えられないと感じて。
少しだけ勇気をふりしぼろうと決意をした矢先に。
突然、足元に開いた黒い陥穽に落ちこんでしまった。
……すべては終わったと思った。
これでもう彼に想いを告げることさえ出来なくなったと。
辛さより悲しさよりも虚しさがあった。
なにもかもが、どうでもよかった。
空っぽの心で、人形のように芳樹の求めに応じていた。
そんな中で、美佐子と竜之介のことを教えられた。
悲しく諦めざるを得なかった想いびとが、他の女を選んだ。
本来なら、いっそう心の虚無を強めたはずの知らせ。
しかし、それは逆に瀕死の友美を蘇生させたのだ。
烈しい感情の波立ちが、友美に生気をふきこんだのだった。 

“それは、ないでしょう!?”
荒らぶる心情を言葉にすれば、そうなった。
何故、美佐子なのか?
自分の他にも、少なくともふたりの少女が竜之介に想いを寄せていたことを
友美は知っている。
唯と、いずみ。
どちらも、自分と同様に、本当に竜之介のことを想っていた。
そして、唯やいずみも、友美の気持ちを知っていた。
一度も言葉にしたことはないけれど、自分たちがひとりの少年に
恋していることを、暗黙のうちに理解しあっていた。間違いなく。
だから、互いがライバルであり、同時に仲間でもあった。
無論、友美は―行動には移せなくても、真っ直ぐに彼を見つめることだけは
許されていた頃の友美は、唯にもいずみにも譲る気などなかったし、
唯たちにしても、それは同様だったろう。
それでも、深い部分で通じ合うものがあった、と思う。
……高校最後の冬休みが始まる時のことを、友美は泣きたいような
懐かしさと共に思い出した。
終業式のあと、教室で別れる時。
誰とも休みの間の約束をすることはなかった。
日頃から、そう親密だとは言えなかった唯だけではなく、親友であるいずみとも。
それぞれが、残された短い時間に期するものがあったに違いないのだ。
(負けられない)
友美も静かに自分を鼓舞していたのだった。ほんの二ヶ月前のこと。 

だが、思いもかけぬかたちで、友美は脱落を余儀なくされた。
冬休みは、暗黒の時間と化して、終わってしまった。
諦めるしかない、と。
しょせん竜之介とは結ばれない運命だったのだ、と。
空しく呟いて。涙と感傷で虚無を埋めようという試みには失敗して。
呆然と辛い時を過ごして。
それでも時折、唯やいずみはどうしたのだろうか? と考えた。
彼に、想いを伝えることは出来たのだろうか?
上手くいけばいい……と願う気持ちが、ごく自然に生じたことは、
友美自身意外だった。
ついに、告げることなく葬ることを、悲しく思い定めても、
彼への想いが消え去ったわけではなかったから。
もし、唯かいずみが竜之介への恋を成就させたなら、
自分は、また泣かずにはいられないだろう。
でも、その時にこそ本当に、長い初めての恋を終わらせることが出来る。
ならば、やはり唯かいずみであればいい。彼の心を捕まえるのは。
自分の想いは自分だけのものだけれど―その無惨な結末まで含めて。
共に、竜之介を見つめ続けてきた彼女たちが想いを実らせるならば、
それは、ささやかな慰めになる、そんな気がした。 

……なのに。
竜之介が選んだのは、美佐子だった。
どうして……そんな選択がありうるのだろうか?
美佐子は唯の実の母親で。竜之介にとっても、母代わりであったはずだ。
擬似的とはいえ母と子として十年も過ごしてきた相手を、
異性として求める……愛を囁いて、抱きしめて、キスをする。
……身体を重ねる。
理解できない。許容することが出来なかった。
竜之介へ向けてきた想いを愚弄され踏みにじられた気がした。
とうとう、彼は顧ようとはしなかったのだ。自分の想いも、唯やいずみの気持ちも。
自分は、ただの幼なじみで。いずみはただの級友で。唯は、ただの家族で。
ついに誰のことも、女としては見てくれなかったのだ。
それほど……残酷なことがあるだろうか?

美佐子については、竜之介以上に、その心理を理解できなかった。
なにより、彼女は唯の母親なのだ。
娘が竜之介に向ける想いを、美佐子が知らないはずがない。
なのに、彼女は竜之介を受け入れたのだという。
どうして、そんなことが出来るのか?
恥知らずな、と思ってしまう。汚らわしい、とさえ。
幼い頃から接してきて、それなりに敬慕を寄せてきた友美だったからこそ、
美佐子への感情は冷え切ってしまった。 

だから、美佐子が脅迫され、身体を汚されたということにも、
あまり同情は感じなかった。
聞けば、竜之介との密室での行為が脅迫の材料だったという。
それに屈したということは、後ろ暗い行為だと美佐子自身が
認めたということではないか。
ならば自業自得だろう、と思った。
自分など、なにも悪いことはしていないのに、半裸の姿を撮られて、
純潔を奪われてしまったのだ。それに比べれば……。
……いやな考え方をしてしまっているな、と友美は自嘲した。
それでも、どこか暗い快味を感じてしまう自分を否定できなかった。
(……私って、こんな人間だったんだ)
そんな悟りも、さほどの抵抗なく腑に落ちてしまう。
図太くなった自分に気づく。
胸の中、竜之介の影が薄くなったのを感じる。
芳樹に操を奪われ、諦めるしかないと泣いた時よりも。
諦めるしかない、という呟きは、諦めきれない心が言わせていたのだと知る。
心の底では、彼が助けに来てくれることを期待していたのだ。
だが、無駄だったのだ。彼は私のことなど眼もくれていなかったのだから。
私が泣いている時、彼は母親ほども年上の女に愛を告げていたのだから。
笑うしかない。笑うべきだ。
もう、泣き続けることはいやだ。 

変化。みずからに友美はそれを求めた。
『私のこと、好き?』
そう尋ねた時、はじめて真っ向から芳樹を見つめていた。
容姿は悪い。頭も良くはない。
だが、そんなことはどうでもよかった。
下劣な手段で自分を凌辱したことも、今さら責める気はない。
あんな写真ひとつに縛られたことは、自分の幼さ愚かさのゆえだったから。
『私だけが好き?』
求めることは、それだけだった。
芳樹は忠誠を誓い、それに嘘はないと思えた。
だから、友美は受け入れた。
以来、芳樹の涙ぐましいほどの献身は、相応の満足を友美に与えてきた。
いまの自分たちが“恋人同士”だとすることには、友美の側からも異存はない。
悲惨な記憶からはじまった関係を、そのように作りかえることこそを
友美は強く意志したわけだから。 

ただ、その後も、美佐子と竜之介のことは気にかかって。
友美は、折りにふれて芳樹に情報を求めてみた。
蛙田との接触を嫌う芳樹が知ることは、あまり詳細ではなかったが。
それでも、引き続き、その男―蛙田と美佐子の関係が続いていること、
竜之介も唯も、そのことを知らずにいることはわかった。
自分とは関係のないことだとは思いながら、奇妙に友美の胸は騒いだ。
そんなある日、久しぶりに会ったいずみに連れられて、『憩』を訪れる機会を持った。
竜之介や唯と会うのも久しぶりだったが。
竜之介は変わっていなかった。相変わらず、真っ直ぐで、活力に満ちて。
そして、なにも見えていなかった。
『へえぇ、あのカタブツの友美がねえ』
友美に恋人が出来たと、いずみから教えられた時の反応。
友美の胸を刺した痛みは、ごく小さなものだった。
いかにも彼らしい、と納得する余裕さえあった。
責める気もおこらず、友美の胸に生じたのは憐憫の感情だった。
可哀想だと思ったのだ、竜之介を。はじめて。
それは、美佐子の様子を見たからだった。
美佐子は、明らかにおかしかった。
だが、それは脅迫者との意にそまぬ関係に悩んでいるようには見えなかった。
その焦燥の気配は、女になった友美に、直感的に真実を悟らせるものがあった。
『美佐子さん……好きなひとでも出来たのかしら?』
そんな言葉に、事実と推測を匂わせた自分は、底意地が悪いと思った。 

竜之介はうろたえ、やっきになって否定していた。
友美は、あえて追及せずに矛先をおさめた。
また……彼は気づかないのだな、と思った。
気づかないまま、やがてどんな結末を迎えるのか。
なんにしろ、事実を告げる役まわりは自分にはない。
『唯ちゃんだったら、ゆるせたんだけど』
最後の言葉は、余計であったと後になって思った。
やはり、竜之介を憐れみながら、怒りも消せてはいなかったのだろう。
さよなら、と言うべきだったのだ。その事実だけを。

……しかし、その夜、いずみの部屋で共に過ごした唯に対しては、
純粋な同情だけを感じた。
やがてすべてが露見した時、誰より傷つくのは唯だろうから。
そんな咎は、彼女にはないはずなのに。 

……そしていま、友美は、辿り着いた。
女将に案内されて、離れになった客室の前へと。
美佐子が、男と宿泊している部屋。
どんなつもりで、美佐子がこんなところまで男に同行したのかは知らない。
そこに堕落と裏切りの腐臭を嗅いでしまうのは、友美の決めつけかもしれないが。
真実は、すぐにわかるだろう。
見極める。そこまでする権利があるかどうかなど、どうでもいい。
こうまで自分を駆り立てる感情がなんなのか、それも後で考えればいい。
自分が、その機会を持ち得たこと。いまはそれだけでいいのだ。
佐知子が扉を開けた。
迷うことなく、友美は足を踏み入れた。 






 

 

 

 

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