鳴沢美佐子14


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竜之介が立ち上がった気配で、唯は目を覚ました。
目覚めたことで、居眠りしていた自分に気づく。リビングの低いテーブルに上体を突っ伏して。
この日も前日同様に、ふたりはリビングで時間を過ごしていた。
長い午前と午後を。重苦しい沈黙の中に。
竜之介は憔悴した面に、ますます悲痛の色を強めて。
唯は、そんな竜之介の横顔を、見張るような気持ちで見つめていたのだったが。
午後も遅い時間になって、心身の疲労に耐えきれず、うたたねをしてしまったらしい。
「……おにいちゃん?」
眼をしばたきながら、唯は竜之介を見上げた。
竜之介は応えず、ジッと耳をすませている。
眠っていた唯は聞かなかったが、家の外に車の止まる音がしたのだった。
そして。
カチャリ、と。小さく聞こえたドアの開く音に、竜之介は弾かれたように玄関へと向かった。
慌てて唯も立ち上がったが。踏み出そうとする足が竦んだ。
少なくとも、これで、あてどもなく待ち続ける苦行からは解放されるとしても。
この先には、とても恐ろしいことが待ち受けている気がして……。
それでも、竜之介だけを、そこに向かわせることは出来ないから。
唯は、自分を励まして、竜之介のあとへと続いた。 

「美佐子さんっ!」
果たして、そこに立っていたのは美佐子だった。五日ぶりの帰宅である。
大声でその名を呼んだ竜之介は、数歩の距離を置いて足を止めた。
昂ぶる感情に肩をあえがせながら、なにを言っていいのか、
なにから訊けばいいのか解らないといったふうだった。
唯は、その背後から、竜之介よりは冷静に美佐子を見て。
母のまとう雰囲気が、出発前とは明らかに変わっていることに気づいた。
美佐子は黒のロング・コートを着ていた。唯には、見覚えのない衣装だ。
だが、唯の感じた違和感は、母の見なれぬ装いのせいではない。
旅からの帰りだというのに、手荷物ひとつ持っていないという不自然さの為でもなかった。
高級そうなコートの漆黒の色は、美佐子の白い肌によく映えて。
特に、キッチリと合わせた襟元からのぞく細い首のあたりなどは、
唯でさえゾクリとするような艶めきを漂わせている。
片手でコートの胸元をおさえて、ただ佇んでいるだけの姿から、
どうしようもなく滲むものは……色香。まさに匂いたつような。
これまでも、母の美しさは認め自慢にも思ってきたけれども。
こんなにも……女を感じさせられたことはないと思った。
だから、そんな母をひとめ見た瞬間に、唯は悟ってしまった。
この二日間、竜之介を懊悩させた疑いが、事実のとおりであったことを。
(……おにいちゃん……) 

「ごめんなさい、遅くなって」
それが、美佐子の第一声だった。
まるで、ほんの一、二時間帰着が遅れたような言いかた。
「なっ…」
言葉を探しあぐねていた竜之介が、逆上しかかる。
しかし、目の前に立つ竜之介の激情に、美佐子は気づかなかいのか、
気づかぬふりをするものか。
「表にタクシーを待たせてあるの」
勝手に話をすすめた。
唯は、ほんのりと上気した美佐子の顔を見つめた。
美佐子の眼は、竜之介と唯の方へと向けられてはいるけれども。
その潤みを湛えた瞳には自分たちは映っていないような気がした。
「タクシー?」
「夕食は外で食べましょう。ふたりとも、そのままでいいから、すぐに出て」
「ちょっ、美佐子さん!」
一方的に告げると、美佐子は踵をかえして、再び外へと出てしまった。
一瞬、呆然とした竜之介だったが。すぐに、靴をつっかけるようにして、
美佐子のあとを追った。
唯も、自分と竜之介の上着を手に、家を出る。
すでに悲しい諦めを、胸にわかせながら。 

……夕暮れの街を走る車は、八十八町を出た。
如月町の方角に向かっているようだ。
助手席に美佐子が座っている。唯と竜之介は後部席に。
会話はない。
竜之介は、前席の美佐子に刺すような視線を送り続けているが。
美佐子は窓の外を向いたままだった。
竜之介は、何度も口を開きかけては、懸命に自制しているようだった。
美佐子に問い質したいことは、他人のいる場所で口に出来る内容ではない。
苛立ちに軽く膝を揺すりながら、竜之介は美佐子を凝視している。
……そんな車内の光景を、唯は眺めていた。
(……みんなで、外で食事、か……)
あまり、そういう機会はなかったなあ、などと思い返している。
美佐子は―おかしくなる前の美佐子は、家事をおろそかにすることを嫌うひとだったから。
外食や出前で食事を済ませるということが、ほとんどなかった。
滅多にない機会……でも、楽しくないだろうなあ、と思った。
そして、多分これが。
(……『最後の晩餐』、か……)
まだ、事態の進む先は見えない。どのような決着が待っているのかは、
唯にもわかるはずはなかったが。
それでも、自分たちが以前のような家族でいられなくなることだけは確かだった。 

エレベーターの中には三人だけ。
美佐子は扉の前に立って、視線を下へと向けている。
竜之介はその隣りに立って、階数表示を見上げている。
唯は横の壁に背をもたれて、宙を睨んでいる。
バラバラだな、と唯は内心に呟く。
広くもないスペースに家族だけであっても。会話もなく、てんでに違うほうを向いて。
(こんなに……簡単に壊れちゃうものなんだ……)
達観にも似た諦めの底には、いまだ冷めぬ怒りがあった。
その感情は、美佐子だけではなくて竜之介にも向けられていた。
だいたい竜之介は、美佐子との間にあったことを、いまだ唯には告げていないのだ。
なんら説明も弁解もないまま、それが既定の事実であるかのようになってしまっている。
どういうつもりなのか……などと問うまでもないことも、唯には解ってはいた。
昨日から、自分のことなど、竜之介の意識からは追い出されてしまっているのだと。
惨めな思いがこみあげてくる。
唯とて、この先へと進みたくて進むわけではない。そこで、愛する母を失うことになるのでは、
という不吉すぎる予感があるのだから。
ただ、竜之介のことが心配だから、こうして着いてきたというのに。
その竜之介が、そばに自分がいることさえ忘れているのならば、と。
泣きたいような惨めさ悔しさを噛みしめて。それでも、どうしても竜之介を残して帰る気には
なれない自分に、唯が自嘲のため息を洩らした時。
チン、と軽やかな音が鳴って。エレベーターは目的の階に到着した。 

美佐子から先にフロアに降りて。正面のレストランの入り口へと向かう。
その後に続きながら、竜之介の手が固く握りしめられるのを唯は横目に見ていた。
店内に入った美佐子に、スーツ姿の支配人らしき男が歩みよる。
何事か美佐子が告げると、心得顔で頷いて先導した。
落ち着いた雰囲気の店の中へ足を踏み入れた唯は、窓からの眺望に一瞬だけ目を奪われた。
宵の紫色の空が綺麗だと思った。
支配人と美佐子は、店の奥へと進んでいく。
半ばほど埋まったテーブルから、男性客たちが美佐子へと視線を投げるのに唯は気づいた。
やがて、案内役の男は店の最奥のテーブルに辿りついて、恭しく頭を下げた。
「……なっ!?」
唯の隣りで、竜之介が驚愕に声を詰まらせる。
その席には、男がひとり座っていた。
やはり、男だった……と、いまさらに思いながら、唯もその人物を観察した。
(……え?)
テーブルの横に立った美佐子と言葉を交わす、男の横顔に見覚えがあった。
男が、こちらを見た。
(やっぱり。カエルのおぢさん……?)
以前は連日『憩』に通いつめて、美佐子にちょっかいをかけていた、その客のことは、
唯も知っていた。最初にその男をカエルに擬したのは、唯である。
(このひとが……おかあさんの……?) 

この期に及んで、これほどの驚きに見まわれるとは、思いもしなかった。
タチの悪い客だと、辟易としていた母を知っているから。
呆然とする唯の横から、竜之介が動いた。足早に、そのテーブルへと近づいて、
「なんで、おまえがここにいるんだ!?」
大きな声に、店内の注視が集まる。
男は平然と竜之介を見上げていた。
おろおろとしているのは、美佐子だった。
「りゅ、竜之介くん……」
「美佐子さん、これはどういうことだよ? どうして、こいつがっ」
「おねがい、落ち着いて……」
と、薄ら笑いを浮かべて、激昂する竜之介とうろたえる美佐子を眺めていた男が口を開いた。
「いや、美佐子さんには、長いこと家を空けさせてしまったからね。
 それに対してのお詫びと、君たちとの親睦を深めるために招待させてもらったんだよ」
「……美佐子さん」
わざとらしく丁重な口をきく男のことは無視して、竜之介は美佐子に質した。
「本当に、こいつと旅行に?」
「…………」
美佐子は無言のまま。しかし、コクリと頷きを返した。
「……貴様ァっ!」
竜之介が両手で男の襟首を掴んで、吊るし上げる。
店内にどよめきがわき、案内を終えて離れようとしていた支配人が慌てて戻ってくる。
「竜之介くん! やめてっ!」
美佐子が悲鳴のような声を上げて、竜之介の腕にすがりつき、
「おにいちゃん!」
唯も咄嗟に竜之介の背中に抱きついて、引き剥がそうとする。 

しかし、そんなことでは猛り狂う竜之介を止めること出来なかった。
「美佐子さんになにをしたっ!? どんな卑怯な手を使ったんだよ!?」
「どんなってねえ……」
騒ぎの渦中で、ひとり男だけが冷静だった。
「一緒に温泉でもどうかと誘ったら、ふたつ返事でOKをもらっただけだが。
 これは、卑怯な手になるのかい?」
「ふざけるなっ!」
竜之介が拳を振りかざした。
「やめてっ!」
美佐子がその腕に両手でしがみつく。
「殴るのか?」
ふてぶてしく男が訊いた。
「気にいらないことは、腕ずくで排除しようってか?」
「なんだと?」
「事実を認めたくないから、ここで俺を殴り飛ばして、美佐子を連れ帰ろうってか?
 それで満足か?」
「…………」
男の言葉が、竜之介の気勢をそぐ。
なによりも。
「やめて……竜之介くん……やめて……」
竜之介の腕を抱いて必死に訴える美佐子から伝わる感情が。
「……美佐子さん……」
違う、と気づかされて、愕然とする竜之介。
以前にも同じ場面があって。あの時も美佐子は懸命に竜之介を止めようとした。
それは竜之介の身を案じてのことだった。
だが、いまは。 

「お客さま、トラブルは……」
割り入る暇を見つけた支配人が声をかける。
「ああ、悪かったな」
男が力の抜けた竜之介の手を払って、襟元を直しながら軽く言った。
「ちょっとした行き違いだ。この後は、平和な話し合いにするさ」
な? と、皮肉な目を眼を竜之介に向ける。
また、表情を険しくした竜之介だったが。
とにかくも事実を知ることが先決だと感情をこらえて、男に促されるまま、席についた。
男が手をふって、まだ心配そうな支配人をさがらせる。男が、かなりの上客であることを
匂わせる遣り取りだった。
「さあ」
男が唯にも席をすすめた。何事もなかったかのような態度で。
「…………」
唯は、黙って竜之介の隣りの椅子に座った。
四人がけのテーブル席。
竜之介の対面に男、唯の向かいが美佐子。
そういうことなのだなと、わけもなく唯は納得した。
テーブルを挟んで、あちらとこちら。
母は……あちら側にいる。男の隣りで、身を竦めるようにして座っている。 

「じきに料理がくるから。まあ、ゆっくり食べながら、話をしようじゃないか」
男が、悠然たる調子で口火を切った。口ぶりは、また似非紳士に戻っている。
「まずは、乾杯といこうか」
卓上のワインを持ち上げて、それぞれの前に置かれたグラスに注ごうとする。
「美佐子さん」
竜之介は男を無視して、美佐子を睨みつけた。
「本当のことを言ってくれ。こいつに、なにか脅されてるのか?」
「おいおい、人聞きが悪い…」
「本当のことを言ってよ、美佐子さん。大丈夫だよ。俺が絶対に美佐子さんを守ってみせるから」
俺を信じて、すべてを明かしてくれ、と熱をこめて訴える竜之介。
しかし。
おずおずと顔を上げた美佐子は、かぶりを横にふって。
「……そんなことはないわ」
「嘘だっ! そんな理由でもなきゃ、こんな男と」
「おねがい、竜之介くん。それ以上、失礼なことを言わないで」
「本当のことを話してくれよ、美佐子さん」
「やれやれ……」
大袈裟に男は嘆息して。結局自分のグラスだけにワインを注ぎながら。
「ずいぶんと誤解されているようだな」
言葉とは裏腹に、男がこの状況を楽しんでいことを、唯は見てとった。
「それに、さっきから、“こいつ”だの“この男”だのと。どうにも聞こえが悪い」
美佐子へと向いて、
「紹介してくれないか、美佐子さん」 

美佐子がうなずいて。
「……唯、竜之介くん……」
隣りで竜之介が息をつめるのを感じながら、唯もジッと美佐子を見つめた。
「こちら、蛙田さんとおっしゃるの。ご自身で事業をなさってる方で。
 それで……私が、いま、おつきあいしてるひとなの……」
ついに。その言葉は美佐子自身の口から紡がれた。
言いきってしまって。かすかにホッとしたような美佐子は、
うかがうように隣りの男―蛙田を見た。
「よろしく」
蛙田は、にこかやに唯と竜之介に目礼する。
しかし、唯と竜之介の視線は美佐子に刺さったままだった。
「……どうして、本当のことを言ってくれないんだ? 美佐子さん」
うめくように、竜之介が言ったが。
(……ダメだよ、おにいちゃん)
唯は、心中に、そう呟いていた。
母が男へと向ける眼の色に。
いきさつは知らないが、少なくともいまの美佐子は、この男に依存している、
心まで委ねてしまっていると、悟らされて。
気丈な母の、こんな姿は見たことがない。
母は本当に変わってしまった、この男に変えられてしまったのだと。 

「どうしても、認めてもらえないようだな」
男が苦笑する。
そういう態度の逐一がわざとらしいと、唯は思った。
「まあ、無理もないか。君とは、因縁があるからな」
「…………」
「まあ、あれも誤解の上の不幸な行き違いだったと思うんだよ。
 私としては、水に流したつもりだから、君もあまり気にしないでくれ」
「ふざけるなっ」
竜之介が激昂に肩を震わせる。それを見る男が、愉悦の色を強める。
そういうことか、と唯は納得した。
男は、竜之介に意趣返しをしたいのだと。
こんな場を設けたことも、逆撫でするような態度も、すべては竜之介を嬲るためのものなのだと。
(……もう、帰ろうよ、おにいちゃん……)
もう諦めて。事実を受け入れて。
美佐子が、自分たちと共には帰らないというなら、それも仕方がないから。
自分は、そばにいるから。離れないから。一緒に家に帰ろうと。
……言って聞き届けてもらえるものなら、言葉にもしたけれど。
いまの唯に出来ることは、竜之介が傷つけられていくさまを見続けることだけだった。 

「やれやれ……」
また男が嘆息する。そうしながら、眼には喜悦の光があった。
「ようするに、あれだろ? 惚れた女に心変わりされたことが納得できないってんだろ?」
「なんだと……?」
「そう驚くなよ。それくらいは美佐子から聞いてるさ」
地を露わにしてきた男は、美佐子のことも呼び捨てにする。
「けど、そんなこたあ、ザラにある話じゃないか? 女なんてのは、したたかなもんだからな。
 少しでもイイ男が現れりゃあ、とっとと乗り換えちまうもんさ」
しゃあしゃあとヌカした男の勝ち誇った顔が、どうにも面憎くて。
唯は、思わず口を開いていた。
「おじさんの方が、竜之介くんよりイイ男だっていうの?」
突然の発言に、皆が唯へと眼を向ける。
男も一瞬虚をつかれたような顔をしたが、すぐに楽しげに笑って、
「……その前に。唯ちゃんは、お母さんと竜之介くんが、そういう仲だったことについては、
 なんとも思わないのかい?」
逆に、そう聞き返した。
竜之介と美佐子が反応するのを、なにをいまさらと受け流して、
「それは、いまは関係ない。ただ、竜之介くんよりおじさんの方がいいなんてことは、信じられない」
唯は、キッパリと言い放った。
「こりゃあ参ったな。じゃあ、唯ちゃんも、美佐子が嘘をついてるって思うのかい?」 

「嘘って? この頃のおかあさんは、嘘ばかりだから。どれのことだかわからない」
冷淡に言い捨てて。美佐子が悲しげに目を伏せるのも、視界の隅で受け流して。
唯は男を睨みつける。
「美佐子が、おじさんのことを好きだってことさ。それも嘘だと思う?」
「それは……本当だと思う」
「唯っ!?」
竜之介が責めるような声を上げるのも、唯は聞き流す。
誰もかれも……自分勝手なんだから。私も思ったままのことを言ってやるのだと。
「でも、それが、おじさんが竜之介くんより上だっていう根拠にはならない。
 おかあさんは、頭がおかしくなっちゃたんだと思うから」
「……唯…」
美佐子が哀切な声で呼んでも、唯の心は痛まない。むしろ、かすかな快味さえ感じていた。
「なるほどねえ……」
ふんふんと、男は頷いて。
「確かに、おじさんは、このとおり面も良くないしね。竜之介くんみたいに格好よくないわな」
「見かけだけじゃないよ。中身だって…」
「そう、そこだよ」
我が意をえたりと、男が笑う。唯の言葉を捻じ曲げて、
「男の魅力ってのは、見てくればかりじゃないんだなあ。だから、美佐子も竜之介くんより
 おじさんを選んだんだよ」
「そんなの、おかしい」
「まあまあ。唯ちゃんみたいな若い娘には、まだわからないかもしれないけどね。
 男と女が付き合うのに、一番肝心なことがあるんだよ」
「………………」 

まあ、ズバリ言っちゃうと、セックスだよ。
 肌が合う合わないってのが、とても重要な問題なんだなあ。
 その点で、おじさんと唯ちゃんのお母さんは相性バッチリでね」
「黒木さん……」
それ以上はと懇願の目を向ける美佐子を黙殺して、男は続けた。
「唯ちゃんは知ってたかな? 美佐子は、もう竜之介くんともセックスをしてるんだよ」
「おいっ!?」
竜之介が慌てて止めようとするのに、男は皮肉な目を向けて。
「事実だろうが?」
「そんなことは、いまは」
「関係あるから話してるのさ」
唯は、数瞬、ギュッと眼をつぶって。それで精神の再建を果たすと、
「……それがどうしたの?」
再び男を睨んで、冷たい声で問いかけた。
男は、感心したように唯を眺めて、
「ああ、つまりだ。美佐子は、俺と竜之介くんのセックスを比べた上で、
 俺を選んだってこと。そもそも、先に関係を持ったのは俺の方だったんだけどね」
「美佐子さん……!?」
愕然として美佐子を見る竜之介。眼を伏せる美佐子。
「ところが事情があって、しばらく逢えなくなってね。すっかり、おじさんとのセックスに
 味をしめてた美佐子は、我慢ができなくなって、竜之介くんを誘ってしまったらしいんだ」
口調はソフトなままだったが、表現は露骨になっていく。
「だが、残念ながら若い竜之介くんじゃあ、美佐子を満足させることは出来なかったんだな。
 そのすぐ後に、おじさんと逢ったときには、もうタイヘンだったよ」
唯に向かって語りながら、無論のこと、男は竜之介の耳を意識している。 

「でもね。お母さんのこと、あまり責めないでほしいんだな。
 美佐子の旦那さん、つまり唯ちゃんのお父さんは、十年も前に亡くなってるだろ?
 それから、美佐子はずっと独り身で過ごしてきたわけだけど。
 美佐子くらいの年齢は女の欲求が一番強くなる時期なんだよ。
 そんなところへ、おじさんと知り合って。
 それで、溜めてたものが一気に爆発しちゃったんだなあ。
 おじさんは、これでも、そっちの方はちょっとしたもんなんだ。
 美佐子は、この年ではじめて女の悦びを知ったわけさ。
 だから、おじさんに夢中になるのも無理はないんだよ」
厚顔な長広舌をひと区切りさせて。男はワインで喉を湿らせる。
竜之介は引き攣った顔で、ただ美佐子を凝視している。
美佐子は項垂れて、消え入りたいような風情を見せている。
でも、否定はしないのだな、と唯は思った。男の薄汚い言上に、美佐子は口を挟みもせず、
ただ恥じ入っている。
「……つまり、お母さんがおじさんを好きになったのは、セックスだけが理由ってこと?」
「いやあ、いまじゃあ、それだけでもなかろうと自惚れてるんだけどねえ」
もっとも、と含み笑って、
「唯ちゃんのお母さんは、見かけによらず、かなりのスキモノだからね。
 おじさんくらいに強い男じゃないと太刀打ちできないかもしれないな」
チラリと、竜之介を横目に見る。
「しばらく、おじさんと逢えなかったって言ったろう? 悶々としちゃってたんだなあ。
 久しぶりに逢った美佐子が、あんまりトチ狂うもんで、それじゃあ温泉にでも行って、
 ジックリ愉しもうかって提案したら、大喜びで乗ってきてね。
 向こうでは、それこそ朝から晩まで、そればっかりでさ。ついつい滞在が延びちゃったんだよ」
「……………」 

「ようやく昨日の朝に宿を出てね。さすがにおじさんも疲れちゃってたんだけど。
 ところが、美佐子ときたら、まだ帰りたくないなんて言うもんでね。
 結局、昨夜はおじさんの家に泊まったんだ」
昨日か……と、唯は思いおこす。
自分と竜之介が、苦悶のうちに過ごした長い昼と夜。
帰らぬ母は、この男のところにいたのだ。連絡すら、誤魔化すための電話一本すらよこさずに。
「実は、おじさんの家に美佐子を入れたのは、昨日がはじめてでね。そのことに感激したらしくて、
 またエライ乱れっぷりでさ。おじさんにしがみついて、捨てないでくれって泣いてすがるもんで。
 それなら、ちゃんとふたりの関係を、唯ちゃんや竜之介くんにも話すように言ったんだ。
 これまで、唯ちゃんたちに隠してきたこと、おじさんも心苦しく感じてたんでね」
明らかに嘘だとわかる一節で、暴露をしめくくって。
男は、ゆっくりと竜之介に向いた。
「……とまあ、そういうことなんだが」
「……嘘だ」
しぼり出すような声で、抵抗する竜之介。
「美佐子さんは……そんなひとじゃない……」
「…………竜之介くん……」
俯いたまま、美佐子が悲しげに眉を寄せた。
そんな言葉を繰り返すしかないのだろうな、と唯は竜之介を悲しんだ。
そして、そんな竜之介の頑迷なまでの抵抗こそが、いまは美佐子を苦しめるのだろうな、
と理解した。辛そうな母に同情は感じなかったけれど。 







 

 

 

 

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