鳴沢美佐子13


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三日後の夜。
唯と竜之介は、遅めの夕食をとっていた。
唯特製のビーフ・シチューは、充分な出来映えであったが。
いまひとつ、雰囲気は弾まない。
ふたりとも、つい空いた席に目を向けてしまう。いつも美佐子が座っている場所に。
そこには美佐子の分の食器も用意されているのだが。
「……おかあさん、今日も帰ってこないのかなあ?」
「……うん」
竜之介は、時計を確認する。午後七時すぎ。
予定通りなら、美佐子は前日には帰っているはずだった。昨日も、唯は三人分の夕食を用意していたのだ。
だが、夕方になって、美佐子から電話があった。
同行した友人―美佐子をこの旅行に誘った人物が体調を崩したので今日は帰れない、と。
そういうことなら仕方ない、と電話を受けた唯は納得し、話を聞いた竜之介も、
「その、美佐子さんの友達ってのも、人騒がせなひとだなあ」
と寸評して、ことはおさまった(竜之介は唯に窘められたが)。
今日は帰ってくるだろう、と夕食を遅らせて待っていたのだが。
なんの連絡もないまま時間が過ぎて。先に食べてようか、となったわけだった。
そういう次第で、落ち着かない気分のまま、ふたりきりの食事は終わった。 

電話が鳴ったのは、さらに一時間ほど過ぎた頃だった。
待ち構えていた唯が、素早く受話器をとる。
居間で、見たくもないテレビを見て時間を潰していた竜之介も、そばに寄った。
「おかあさん? うん……えっ、今日も?」
電話は美佐子からで、やはり今日も帰れないらしい、と唯の言葉から竜之介も察した。
「うん……それは、仕方ないけど……でも、店のこともあるし……うん。
 だから、おかあさんだけでも帰ってこれないかって……」
そうだよなあ、と竜之介も唯の言い分に賛同した。
その友人が、どの程度の状態なのかはわからないが。場所は旅館なのだし、
どうにでもなるだろうと。美佐子とて、仕事と家庭を持っているわけだから、
何日も拘束されるのは理不尽であろうと。
「うん……わかるけど……え、ちょっ、おかあさん?」
憮然たる顔で受話器を戻した唯。
「切っちゃった。話の途中なのに」
口を尖らせて、傍らの竜之介を見上げて、
「……昨日は注意したけど。唯も、ちょっと、おにいちゃんに賛成したい気分だよ」
「え? ああ、まあ、仕方ないよ」
「でも。わざわざ、旅先で調子を崩さなくてもいいのに」
どうにも、面倒見のいい母が振りまわされているように思えて、唯は面白くないらしい。
まあまあ、と宥めながら。竜之介は、ふと思い至った。 

「そういえばさ。その美佐子さんの知り合いって、どんなひとなんだ?」
これまで、あまり気にしたことがなかったなと気づいて、唯に尋ねた。
「学生時代の友達だって言ってたよ」
「唯は知ってるひと?」
「ううん、知らない。とにかく、はた迷惑なひとだよ。おにいちゃんの言うとおり」
いや、俺はそこまでは言ってないんだけど……とか思ったが。
いつになく怒りを露わにしている唯に、いらぬ反駁は避ける竜之介であった。
「ま、まあ。とにかく連絡があって事情もハッキリしたんだからさ」
「そうだけど……」
確かに、心配する必要はなくなったわけだった。
「いくらなんでも、明日は帰ってくるだろうから。な?」
「……うん」
まあ、これで今夜も、おにいちゃんとふたりきりで過ごせるわけだし、と思い直して、
機嫌を直す唯。ここまでの“ふたりきり”の間に、なにがあったわけでもないのだが。
「フフ♪ おにいちゃん、コーヒーでも淹れようか?」
「うん? ああ……(?)」
……ともあれ、美佐子のいない四日目の夜は更けていったのである。
平穏な日常の、最後の夜。 

翌日。八十八学園。
三年B組の教室は、久しぶりの賑わいに包まれていた。
卒業式の予行演習のため、休んでいた生徒も登校してきたからだった。
そこかしこで、しばらくぶりの対面を喜びあい、話に花をさかせる光景。
「竜之介っ! しばらくだな」
相変わらずの柔道着姿で現れたのは、竜之介の親友、川尻あきら。
「よう、あきら。久しぶり」
「おはよう、あきら君」
「おお、唯ちゃん。おはよう」
「あきら、学校へも来ないで、毎日なにをやってたんだよ?」
「俺か? いやあ、なにかと忙しくてなあ」
そう答えながら、何故か照れくさそうにする、あきら。
「……ああ、そうか」
竜之介は、冬休みの終わり頃に、あきらが電話で報告してきたことを思い出した。
「さては、あきら、洋…」
「わあああーーーっ」
洋子とデートばかりしてたのだろう、と言いかけた竜之介の口を慌てて塞ぐあきら。
「あは、はははっ、唯ちゃん、ちょっと竜之介と男同士の話があるんで……」
驚く唯には、そう断って、そのまま竜之介を廊下へと引き摺っていった。
人目がないのを確認して、ようやく竜之介の口を押さえた手を離す。
「ぷあっ! いきなり、なにをする?」 

「困るよ、竜之介。唯ちゃんの前で、洋子の話をされちゃあ」
「なんで? おまえら、つきあってるんだろう? 俺に教えてくれたじゃないか。
 あの、やたらハイ・テンションな電話で」
「しーーーっ! 声が大きい。……あれは、親友のおまえだから話したんだ。
 竜之介には、いろいろと相談にも乗ってもらったからな」
「なんだ? おまえら、秘密の交際をしようっていうのか?」
「いや、秘密なんて言われると大袈裟だがな。ことさら吹聴する必要もないだろうって、
 洋子が言うし……」
「ふうん……洋子がねえ」
「な、なんだよ? そのイヤらしい笑いは」
「いやいや。睦まじくやってるんだなと思ってさ。憎いよ、この!」
「か、からかうなよ」
と、口では言いながら、満更でもなさそうな、あきら。
「グフフ。で、あきら、どうなんだよ?」
「なにが?」
「洋子とは、どこまでいったんだよ? チューくらいしたんだろう? チューチュー」
「す、すぼめた口を近づけるなっ」
「教えろよ、俺とあきらの仲じゃないか」
「う、うむ、そう言われるとなあ……」
あきらは、あらためて周囲をうかがうと、竜之介に顔を寄せた。 

「じ、実はな」
「ふんふん?」
「その、なんだよ、俺たちも、もう卒業じゃないか」
「ああ。それが?」
「だ、だから、高校時代の最後の思い出を作りたいと思ってな。思い切って、
 洋子を旅行に誘ったんだ」
「おお、やるなあ。当然、泊まりだろ?」
「う、うん、そういうことだ。そうしたら、意外とアッサリOKが出てな。
 昨日まで行ってたんだ、うん」
「おお! どうだ、ちゃんと出来たか?」
「そ、そういうストレートな言いかたはヤメろ……ま、まあ、なんとか無事にな」
「そうかあ……あきらも男になったか」
感慨深げに述懐する竜之介。バシバシとあきらのゴツイ肩を叩いた。
「おめでとう!」
「イタタ……あ、ああ、ありがとうな」
顔を真っ赤にしながらも、誇らしげなあきらであった。
「いや、正直心配してたんだよ。こいつは、一生テレビと柔道だけを友として生きていくのかってな」
「えらい言われようだな……ああ、そういえば」
「うん?」
「向こうで、美佐子さんを見かけたぞ」
「えっ? なんだ、あきらたちの旅行先って冬至温泉だったのか?」
「言ってなかったか。そうだよ」
「ふうん……温泉旅館で初体験か。アダルトというかオヤジくさいというか」
「ほっとけ。とにかくだ。美佐子さんも同じ宿に泊まってたようだな」 

「ふうん、偶然だな。そうだよ、丁度、美佐子さんも行ってるんだ。
 話をしたのか?」
「いや、見かけただけだよ。洋子と一緒だったから、バツが悪くてな。
 美佐子さんの方では、気づいてないはずだ」
「フフ、別に隠れなくてもいいじゃないか。紹介すればよかったのに。
 これがボクの恋人ですってな」
「よせやい。それに、美佐子さんにも気を遣ったんだぞ」
「はあ?」
「そりゃあ、おまえや唯ちゃんにも、ちゃんと断って出掛けてるんだから、
 秘密ってことじゃないだろうが。それでも、バツの悪いものがあるだろう?」
「なにを言ってるんだ? あきら」
「いや、俺もちょっと驚いたけどな。……美佐子さん、再婚するのか?」
「はあっ?」
あまりに唐突なあきらの問いかけに仰天する竜之介。
咄嗟によぎった思考は、自分と美佐子の関係をあきらに知られたのか? というもので。
「な、どうして……あきら、そのこと……」
「ああ、やっぱり、そうか」
納得したように、うなずくあきら。
「や、やっぱりって、なんで、あきらが知ってるんだよ!?
 そ、それに結婚って、いや、いずれはそういう…」
「なにを、そんなにうろたえてるんだ? 竜之介」
「そ、そりゃあっ」 

待て、ちょっと待て、とパニくる心を静める竜之介。
どう考えても、あきらが知っているわけがないと、やっとまともな判断をきかせて。
「な、なにをいきなり言い出すんだよ?」
そう、これが正しいリアクションだと。
「え? 違うのか?」
「違うもなにも……だいたい、美佐子さんが誰と再婚するっていうんだ?」
訊き返しながら、ちょっとだけビビる。
“そりゃあ、おまえとだろ。竜之介”などと答えられたら、どうしようかと。
しかし、あきらの返答は。
「いや、だから、あの一緒に温泉に行ってた男の人とさ」
「…………なんだって?」
「美佐子さんって、物堅いイメージがあるからな。ふたりきりで旅行に行くってことは
 真剣に交際してる相手なんだろうと思ってな。それで再婚…」
「待て、ちょっと待ってくれ」
片手を上げて、あきらを制した竜之介。
深く息をついて、一瞬胸を撫でていった冷たい感覚を消す。
「な、なにか勘違いしてるぞ、あきら」
そう、これはあきらが見誤っているに違いないのだ。
「美佐子さんは、友達と出掛けたんだよ。もちろん女のひとだ」
そうだ、美佐子の同伴者は学生時代の友人だ。最近まで入院していて、美佐子が介護に出向いていた。
その御礼といって、美佐子を誘い出しておきながら、旅先で体調を崩して、
美佐子を足止めさせることになっている。ちょっと、人騒がせな……。
だが。自分も唯も、その人物を実際には知らない。美佐子から聞かされた情報だけ。 

「え? そうなのか?」
「そうだよ。間違いない」
間違いないはずだ。だって……美佐子さんが嘘をつくわけがないから。
なのに、何故、あきらはそんなに意外そうな顔をする?
「うーん……」
「あきらも、遠くから見かけただけなんだろ? 
 たまたま、他の客がそばにいるところを見間違えたんじゃないか?」
「あ、いや、そうなのかな」
そうなんだって。まったく、驚かせてくれるぜ……。
そう笑い飛ばして、終わることのはずなのに。
「……どうして、そんなふうに思ったんだ? 美佐子さんが、その男の客と一緒だって」
訊いてしまう竜之介。
……あまりにも急な出発。
……予定の日数が過ぎても帰ってこない美佐子。
「どうしてって、まあ、親密そうに見えたんでな」
「……親密そうに?」
「ああ。旅館だから、ふたりとも浴衣姿で。それで、ピッタリ寄り添うように
 歩いてところを見かけたんでな」
「……寄り添うように、か」
「こう、男が美佐子さんの腰を抱くようにして。美佐子さんも、凭れかかるみたいに」
「………………」
別に、あきらは殊更に竜之介の不安を煽ろうとしているわけではない。
訊かれたことを律儀に思い出そうとしているだけだった。
ただ、記憶を辿るのに懸命になってしまって、
「……それは、あきらが誤解するのも無理ないかな」
竜之介の声が硬くひび割れているのに気づかなかった。 

「そうだろう? それに……」
「それに?」
「うん、ふたりで同じ部屋に向かってたようなんだが……」
「ふうん……」
「その旅館にはな、離れになってる部屋があるんだよ。宿のひとに聞いたら、一番高級な部屋で、
 滅多に客が入らないらしいんだけどな。ふたりが歩いていった方向には、その部屋しか……」
そこまで言って。ちょっと下世話すぎたかと気づいたあきら。
「あ、いや本当に部屋に入るところまで、見たわけじゃないしな。
 そもそもが、俺の勘違いだっていうわけだし」
「そうだよ。美佐子さんと一緒に行ったのは、友人の女のひとだ」
竜之介の口調は平坦になっている。
「……竜之介…?」
「………………」
「ああ、すまん。思いこみで、おかしなことを言っちまったな。許してくれ」
「……あ? いや」
頭を下げるあきらに、我にかえる竜之介。
「謝るなよ。あきらは……見たとおりのことを言っただけだろ?」
「あ、ああ、そうだが……」
「もしかすると、美佐子さん、向こうでナンパされたのかもな」
冗談のように、そう言ってみる。
美佐子が旅先で見知らぬ男からの誘いを受けるのと。
美佐子が自分たちに嘘をついて男と旅行に出掛けるのと。
どちらの方が、まだ受け入れやすいだろうか? などと思いつつ。 

「うーん。確かに美佐子さんは美人だからなあ。ナンパされてもおかしくないし。
 それで、旅先でつい気持ちがゆるんで……あ、いや」
あきらが、つい納得したように頷いて、竜之介の言葉に乗ってしまったのは、
やはり、自分の目で見た光景のせいなのだろう。
「…………」
「す、すまん、竜之介」
母親代わりの女性の、そんな話を聞かされては、竜之介が険しい表情を見せるのも
無理はない、と。自分のうかつさを恥じて、また謝るあきらだったが。
「……あきら」
「いや、悪かった。このとおりだ。どうか、この話は唯ちゃんや美佐子さんには…」
「俺、帰るわ」
「なにっ?」
と、驚いた時には、すでに竜之介は歩き出している。
「お、おいっ!? 竜之介っ!」
「唯には、腹が痛いんで早退したとでも、言っといてくれ」
「早退って、登校したばかりじゃ……おいっ!」
引き止めるあきらの声にも耳を貸さず、足早に遠ざかる竜之介。 

通学路を、ほとんど駆け通した。全速力で。
そうすることに意味があるとかないとか、考えられなかった。
走破タイムは、間違いなく自己ベストだ。といって、帰宅時にこれほど急いだことなど
一度もなかったけれども。
家が見えてくる。『憩』は閉まったままだ。
家の玄関にも鍵がかかっている。竜之介は自分の鍵で、それを開ける。
靴を脱ぎ捨てて、静まりかえった家の中へと飛びこんだ。
無人。無音。唯と竜之介が学校へ出てから、ひとの踏み入った形跡は、どこにもない。
「……そりゃ、そうだ」
今朝、自分たちが家を出てから、まだ一時間と経っていないのだから。
「なにを、うろたえてるんだ、俺は」
ゾファに座りこんで。背を倒して、天井を仰ぎ見た。
「……疑っているのか、俺は……? 美佐子さんを」
もう揺るがないと確信したはずなのに。
あきらに、あんなことを言われただけで、簡単に疑心暗鬼に陥ってしまうとは。
でも。
あきらは、いい加減なヤツではない。ひとの行動を色眼鏡で見て、
針小棒大に騒ぎたてるタイプの人間ではない。
あきらは、見たままのことを口にしたのだと思う……。
「でも、違う」
違うはずなのだ。そこに、なにか大きな食い違いがあって。
あきらを誤解させたような場面にも、なにか理由があるはずなのだ。
それは、本当の事情を知れば、笑ってしまうような他愛もないことで……。 

「そうだよ。そうに決まってる」
あんなに熱く求めあったのは、わずか数日前のことじゃないか。
あの夜に、自分と美佐子は心も体も深く結ばれたじゃないか。
そう思えば、暖かい安堵がわいて。
しかし。
帰ってこない美佐子に、あきらから聞かされた情景を重ねれば、どうしようもなく
暗く冷たい不安がわき起こって。
疑心と信頼の間で、心の針が揺れる。揺れてしまう自分を、もう誤魔化せなくなっている。
「ちくしょう」
待つしかない状況が歯痒い。いくら心を乱しても、いまは美佐子の帰りを待つしかないのだ。
「……美佐子さんさえ、帰ってくれば……」
すべてがハッキリとするはずだ。白か黒か。
いや、違う。全部が、馬鹿げた杞憂であったとわかるのだ。
問い質す必要などない。美佐子の顔を見れば、その声を聞けば、わかることだ。
その時。扉の開く音。
弾かれたように立ち上がって、玄関口へと向かう竜之介。
「美佐子さんっ」
姿を確認するより先に、叫んでしまったが。
「………………」
「……なんだ、唯か……」
その言いぐさも、ガックリと気落ちする態度も、失礼なものだったが。
それに非を鳴らすこともなく。唯は、蒼ざめた顔でその場に立ち竦んでいる。
フウ、と嘆息して壁に背をもたれた竜之介は、唯の異状には気づかない。 

「どうしたんだよ? こんなに早く帰ってきて」
先に帰った自分のことは棚に上げて、そんなことを訊いた。気のない調子で。
唯はなにも答えず、放心したていで佇んでいる。
「……唯?」
「…………おにいちゃんが、具合が悪くて早退したって……あきらくんから聞いたから」
伏し目になって、ボソボソと呟くように答えた唯。
「それで、唯まで早退してきちゃったのか?」
「……うん」
「ああ……ちょっと腹が痛かっただけでさ。もう治った」
ぞんざいな説明で、あっさりと済ませる竜之介。だが、いつもなら、
こんな場合には、大騒ぎして心配するはずの唯は、
「……そうなんだ」
こちらも簡単に納得して、靴を脱いだ。
「………………」
足を引き摺るようにして居間へと戻っていく竜之介の背を見つめる瞳は暗く、
複雑な翳りを刷いていた。 

……重く息苦しいような沈黙が閉ざしている。
ゆっくりと、ゆっくりと時間は流れて。ようやく午後になった。
美佐子は帰らず、連絡もない。
竜之介はソファに腰を下ろして、沈鬱な表情で考えこんでいる。
いまだ制服姿のままだった。
時折、時計を確認し、電話を見やって。苛立たしげに息を吐いて。
そして、また沈思の中へ戻っていく。
そんなことを短いサイクルでエンドレスに繰り返している。
唯は、リビングの隅のほうで。床に座っている。
こちらは着替えを済ませて、膝の上には申し訳のように雑誌を開いているが。
そのページは、ほとんどめくられることはなかった。
ただ視線の置き場として使っているだけだった。
時折、目を上げて竜之介の横顔を見つめる。
そのたびに、なにか物言いたげな表情が浮かび、口が開きかけるのだが。
そばにいる唯のことなど意識にないような竜之介の態度に挫かれて、
また視線を誌面へと戻す。 

唯は、竜之介が帰宅した本当の理由を知っていた。あきらから、なにを聞かされたかを。
竜之介がひとりで帰ってしまったことをあきらから知らされた。
『腹が痛い』という口実を、唯は本気にはしなかった。たった今まで、
ピンピンしていた竜之介の姿を見ていたのだから。
いかにも済まなそうな顔をしているあきらに、彼との会話になにかがあったのだと察して。
唯は、あきらを問い質した。言葉を濁そうとするあきらに、しつこく食い下がって。
そして、聞き出したのだ。竜之介が聞いたのと同じ内容を。
唯は、急ぎ竜之介のあとを追って、家へと帰った。
足早に家路を辿りながら、唯の心は混乱していた。
あきらから聞かされた母の行状は、信じがたいものがあった。
あきらも、勘違いだったと繰り返して、唯に平謝りしていたが。
唯も、そうに違いないと思った。
母は、美佐子は、そんなひとではない。家族である自分たちに嘘をついて、
男と旅行に出掛けたりはしない。旅先で、気軽に男の誘いに乗ったりもしない。
唯は、そう信じているし、竜之介とて同様であろうと思う。
だが。あきらから話を聞いて、竜之介は学校を飛び出した。
何故、そこまで過剰な反応を示すのだろうか?
その疑問が、唯の胸に凝り固まって。いいようのない不安をかきたてた。
そして。
家へと帰り着いた時。
血相を変えて駆けつけ、美佐子の名を呼んだ竜之介の姿に。
唯は、直感的に悟るものがあって。呆然としてしまったのだった。 

それからの長い時間のうちに。
唯は、何度も確かめたいと思いながら、結局果たせなかった。
どんどん殺気だっていくような竜之介の雰囲気が、そんな問いかけを拒絶していたし。
どんな言葉で訊けばよいのかも解らなかった。
答えを聞くのも怖かったし。どうしようもないほどに。
ただ、無言のうちに過ぎ行く時間が。
その中で、唯に隠そうともせず懊悩する竜之介の態度が。
唯の恐怖を裏付けして、確たるものに変えていくように思われた。
(……私って、ひどい娘だな)
煩悶の中で、そんな自責の思いもわいた。
美佐子の旅先での行動や、いまなにをしているのかということには、
ほとんど不安を感じていない自分に気づいて。
心配するどころか……不審な行動で、竜之介に苦衷を味あわせている母に、
怒りを感じている。
いや。それも本心ではない。
……自分の辛い推測のとおりに、竜之介と美佐子との間に、想いが交わされていたとして。
その上で、美佐子が本当に竜之介への裏切りを働いたのならば。
むしろ、それを喜ぶ感情が、自分の中にはあるのではないか、と……。
(……醜い……)
なんて、醜悪な心だろうかと。泣きたいような嫌悪を感じる。
(……おにいちゃん、こんなに苦しんでるのに……)
取り繕う余裕さえ失って、苦衷を露わにする竜之介の姿には、
心痛とともに、切ない憐れみを感じるのに、と。
それでも……だからこそ、だろうか。
美佐子の帰宅を待ち侘びるべきか、恐れるべきなのか。
唯は、どちらとも心を決めかねるのだった。 

……夕方になった。
美佐子は戻らず、電話も鳴らない。
唯は、立ち上がってリビングに灯りを点した。
そして、夕食の用意をするためにキッチンへと向かいかける。
「……唯」
ふいに呼ばれて、思わずビクリと震えてしまった。
「な、なに?」
「美佐子さんの宿泊先、わかるか? 電話番号とか」
思いつめた表情で尋ねる竜之介。
いま、思い至ったことではないだろう。あるいは、それを決意するために、
長い時間を費やしていたのかもしれない。
そうすることは、美佐子への疑心を認めることになるわけだから。
「……ごめん。聞いてない……」
「……美佐子さん、メモかなにか置いて行かなかったのか?」
「……うん」
唯や竜之介も、うかつと言えるだろうが。
美佐子にしても、らしくないことであった。またしても。
「………………」
それでも、竜之介は受話器をとって。諳んじている番号を押していった。
「……ああ、あきら? 俺だよ。うん……それは、もういいよ……聞きたいことが
 あって。あきらたちが泊まった旅館、なんていうとこ? ……ナガシマ旅館だな。
 電話番号、わかるか? うん、すまん」
番号をメモして、あきらに礼を言って電話を切る。続けて、控えた番号にかける。
「……ああ、ナガシマ旅館ですか? そちらに…」
「…………」
緊張した声で話しはじめる竜之介をあとに、唯はキッチンへと向かった。 

五日続けての、ふたりきりの夕食。
会話はなかった。
旅館への電話でわかったのは。
鳴沢美佐子という客は、今日の午前中にチェック・アウトしたということ。
同伴の客については、一切教えてもらえなかった。男か女かも。
それが、常識的な対応なのか、なにか作為が働いているのかは、竜之介には判断できない。
だから、強張った表情は変わらずに。
ただ機械的に箸を動かして、詰めこむように食事を続ける。
「……なんにしても」
やがて、ポツリと独り言のように呟いた。
「……宿は出てるんだから、今日は間違いなく帰ってくるよな」
言ってから、ふと顔をしかめた竜之介。“なんにしても”という言い方に、
さまざまな意味をこめてしまった自分に気づいて。
「……うん」
唯は、小さくうなずいた。
竜之介の言うとおり、“なんにしても”美佐子は帰ってくるだろう。
ここは、美佐子の家なのだから。
こうして帰りを待っている家族がいるのだから。
美佐子が帰るべき場所は、この家だ。この場所しかない。
……ないはずなのだが。 

……もうすぐ、日付が変わる。
竜之介は、リビングにいた。
唯に言われて、夕食のあとに、制服から着替えはしたが。
ソファに、片膝を抱えるように座っている。
日中のように、時間を確認したり鳴らない電話を見やったりということもせず。
ただ、待っている。
テレビが点けられている。音声は低くしてあった。
万が一のことを考えて、いくつものニュース番組を観たのだが。
事故や、通行止めの情報はなかった。
いまは深夜番組が流れていて、竜之介の視線も画面へと向けられてはいるが。
内容を追っているわけではなさそうだった。
パジャマ姿の唯が、リビングに入ってくる。風呂上りのようだった。
「……おにいちゃん。唯、もう寝るね」
「……ん」
曖昧に返答して。竜之介は、振りかえりもしない。
おにいちゃんも、と休息を勧める言葉を、唯は呑みこんだ。
言っても無駄だと、解っているから。
「……おやすみ」
いたたまれずに、唯は逃げ出した。 

本当に……母は、どこでなにをしているのだろうか?
自室で、ベッドに横たわって、唯は考える。
心配だった。どれほどの拘泥があっても、帰らず連絡すらしてこない
美佐子を案じずにはいられない。
帰ってきてほしい、と思った。切実に。
そして……願わくば、すべてが馬鹿げた行き違いだったと証明してほしい、と。
竜之介のためだけに、そう願うのではなかった。
もし……すべてが事実だとしたら。
いま、この時にも……自分や竜之介が苦しんでいる時間を、
母が、どこかで男と共に過ごしているとしたら。
自分は母を失うことになる、という恐怖があった。
そんなことには耐えられない。
だから、一刻でも早く美佐子が帰ってきて。そして、魔法のように、
この暗黒を打ち払ってくれることを、唯は望んだ。
そうなれば……自分は別の悲しみに直面することになるだろうが。
そのほうが良いと思った。ずっと良いと思った。
それでも、家族でいられるから。
……しかし、現実的には、この深更になって、美佐子が帰宅する可能性は薄い。
唯は時計を見て、朝までの時間をはかった。その長さを思った。
眠れるとは、思っていない。
ましてや……階下で、竜之介が過ごす夜の長さを慮れば。
唯は、愛情や憐憫や悔しさや怒りや悲しみが渾然となった、
あまりにも複雑な感情に胸をしめつけられて。
頬に涙をこぼした。 

長い、長い夜。
ドス黒い猜疑が襲い、胸の軋む音が聞こえる気がする。
絶望が、すべてを黒く塗りこめようとする。
それでも、竜之介は歯を食いしばって、踏みとどまるための足場を探した。
どんな夜も、明ける。
朝になれば、すべての暗いものは霧消して。笑うことが出来ると信じて。
朝になれば。美佐子さえ帰ってくれば。

……だが、竜之介の悲壮な戦いは、夜とともに終わるわけでもなかったのだ。

美佐子が帰宅したのは、翌日の夕刻だった。 







 

 

 

 

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