鳴沢美佐子6


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その午後。
唯は、ひとりで帰宅の途についていた。
竜之介は進路の件で担任の片桐先生に呼び出され、まだ学校にいる。
三年生のこの時期になって、いまだ卒業後の進路が決まっていないというのも尋常ではないことだが。
『まあ“あの”竜之介なら、そういうこともあるか』、という空気が周囲にはあったりもする。
なにより当人である竜之介が、焦るそぶりさえ見せないのだから。
多分、真剣に心配しているのは、片桐先生と唯ぐらいのものではないか。
それが唯には不満で、たびたび母親の美佐子に、竜之介の尻を叩くように頼んでいるのだが。
『竜之介くん自身が決めることだから』というのが、毎度の美佐子の答えで。
さらに、『心配しなくても大丈夫よ。竜之介くんなら』と、自信たっぷりに保証するのだった。
その時の母の表情は、いつも唯にかすかな嫉妬のような感情を覚えさせた。
母の竜之介に対する信頼は、自分のそれよりも強い。それは母が自分よりも深く竜之介という
少年を理解しているからではないか? と。
そう思えば、奇妙に胸が騒いで。その後に自己嫌悪に襲われる。
やきもちにしても見境がなさすぎると。
無論、母美佐子は竜之介を愛している。唯を愛するように。血は繋がっていなくても、
自分の子供として愛しているのだ。
そうであることは唯にも解っているから自分の嫉妬を恥じる―のだが。
しかし、最近特に、そんな胸騒ぎをしばしば感じるようになっていた。
三人で食卓を囲んでいる時、あるいはリヴィングで他愛もない会話をしている時。
美佐子を見る竜之介の目色に。竜之介の横顔を眺める美佐子の表情に。
唯は、ふっと漠たる不安を芽生えさせることが多くなっていた。 


「……どうかしてる」
フゥッとため息をついて。唯は、また心に浮かべてしまった馬鹿げた焦燥をふり払って、
遅くなっていた歩みを進めた。
やはり、自分も不安定な精神状態になっているのだろう、と思う。
人生の大きな岐路を迎えようとする、この時期に。
「……おにいちゃんが悪いんだよ」
いまは隣りにいない竜之介に文句をつけた。唯自身の進路はとうに決まっていて、
現在の悩みは全て竜之介にまつわることなのだからと。
……でも、と唯は学校で別れてきた竜之介のことを思い出した。
授業が終わって、片桐先生のもとへ向かう時の竜之介は、これまでと違って、
決然たる態度だったように思う。
あるいは、竜之介もようやく自分の進む道について決断を下したのかもしれない。
無論それは喜ぶべきことだし、そうでなくては困るのだが。
しかし、そうなればそうなったで、一抹の寂しさを唯は感じてしまうのだった。
「ダメだなあ……」
そんな自分に、またため息をついた頃に、ようやく我が家が見えてきた。
「あれ……?」
唯が怪訝な表情を浮かべた。
「お店、閉まってる」
思わず腕の時計を確認する。四時前。まだ営業時間だ。
『CLOSED』の札が下がったドアを押して、やはり施錠されていることを確かめると、
唯は急ぎ足で家へと向かった。 

「お母さん?」
鍵を開けて入った家の中は、シンと静まっていた。
美佐子の靴は玄関に脱いであるが、唯の呼びかけにも答える声はなかった。
「お母さん? どこ?」
声を大きくしながら、母の姿を探す。
リヴィングにも台所にも美佐子はいなかった。
「……出掛けてるのかな?」
そうも思ったが。突然の店の休業は気にかかった。
唯は美佐子の寝室へ向かい、ドアを叩いた。
「お母さん? ……入るよ」
ちょっとだけ遠慮がちにドアを開いて。
「……お母さん!?」
唯は、そこに見つけた母の姿に、大声を上げてしまった。
美佐子はベッドに横たわっていた。倒れこんでいた、と言った方が正しい。
布団をまくりもせず、ベッド・カバーの上に手足を投げ出すようにうつ伏せになっている。
身にまとった白いバス・ローブの裾は乱れて、白い脚が半ばまで剥き出しになり、
柔らかそうな両の足裏を唯の方に向けていた。
「お、お母さん!? どうしたの!?」
尋常ではない母の姿に、唯は慌てて駆けよって、肩を揺さぶった。
広がった豊かな髪の中に、横向きに伏せられた美佐子の顔には血の気がなくて、唯の動悸を早まらせた。
「お母さん! しっかりして!」 

懸命な唯の呼びかけに、ようやく美佐子が反応を示す。
長い睫毛が震えて、ゆっくりと双眸が開かれた。
それに、唯はホゥとひとまずの安堵の息をついた。
「よかった、ビックリしちゃったよぅ」
「……唯……?」
美佐子はまだ意識が醒めきらないのか、ボンヤリとした言葉を返した。
「いったい、どうしたの? お母さん、具合悪いの?」
「……唯……私……」
数度目蓋をしばたいて。
ハッと我に返った美佐子は、急に狼狽の色を示して、起き上がろうとした。
しかし、腕に力が入らないのか、起こしかけた体がグラリと揺れる。
「ちょっ、ダメだよ、無理しちゃ」
唯が手を差しのべて、美佐子の体を支えた。
ハラリと、美佐子のローブの前がはだけて、白い胸肌が露わになった。
「……お母さん、下着つけてないの?」
「あ、こ、これは」
軽い驚きを浮かべた唯の言葉に、美佐子はサッとローブの合わせを引いて肌を隠した。
髪も濡れているし、どうやら美佐子は湯上りらしいことはわかったが。
それにしても、ローブの下になにも着ていない美佐子が、唯には意外だったのだ。
「これは……シャワーを浴びて……その後に気分が、悪くなって」
きつく引っ張った襟で首元まで覆い隠しながら、言葉を探すようにして、美佐子は釈明した。
「そうなんだ。お店も閉まってるし、どうしたんだろうって」
「そう、なの。あの、調子が悪くて、お店を閉めて……休む前に汗を流そうと思って」
唯は簡単に納得したのだが、美佐子は殊更に言葉を費やして弁明した。

「そうだったんだ。ホント、ビックリしたんだよ。お母さん、布団にも入らずに倒れてるんだもん」
「ご、ごめんなさいね。部屋に戻ったら、急に眩暈がして」
「眩暈……風邪かなあ?」
そう言って、美佐子の額に手をあてる唯。
「……熱はないみたいだけど。痛いところとかは?」
「大丈夫よ……きっと、ただの疲れだと思うわ」
安心させるように美佐子は、薄く笑って見せたが。その隠しようもない憔悴の色が唯を不安にさせた。
今朝別れてから数時間しか経っていないのに、美佐子はゲッソリとやつれ果てて見えた。
「お医者さん、呼ぼうか?」
「平気よ」
「でも……」
「大丈夫だから。本当に、少し疲れが出ただけ」
美佐子に重ねて言われれば、納得するしかない。無理に母を病人にしたてたいわけでもないし、
過労というのも、店と家の両方を切り盛りする日頃の美佐子の忙しさを思えば、いかにもなことだ。
「ホントに無理はしないでね。ほら、休むならちゃんとお布団に入らないと。本当に風邪をひいちゃう」
母への感謝と申し訳なさから、俄然テキパキと世話をやきはじめる。
「あ、でも、ちょっと待って」
言われるままに布団の中に潜りこもうとした美佐子を制して。
唯はクロゼットから、乾いたタオルを持ち出してくる。
「髪、乾かさないと。冷えちゃうし、明日の朝、タイヘンなことになっちゃうから」
美佐子の長い髪は、濡れたまま、すでにヒンヤリと冷たくなっていた。
唯は座らせた美佐子の後ろにまわって、洗い髪を大きなタオルで包みこんだ。 

タオルごと髪を揉むようにして、水分を取っていく。
「……だいたい、いいかな」
手早く作業を終えて、仕上がりを検分する。
まだシットリと潤いを含んだ美佐子の黒髪は、艶々と輝いていた。
「お母さんの髪って、綺麗だよねえ」
思わず感嘆の言葉が洩れた。
「…………」
と、黙って唯の手が髪を扱うのに任せていた美佐子が、肩に置かれた唯の手を握りしめた。
「……?」
「……唯…」
か細く名を呼んで、そして唯の手に頬を擦りつけるようにして、美佐子はポロポロと涙を零した。
「お母さん……? お母さん…泣いてるの? どうしたの、辛いの?」
突然泣き出した母にうろたえる唯に、美佐子は無言で何度も首を横にふった。
「……ごめん、なさい……なんでもないの……なんでも……」
指で目尻を拭って、笑顔を取り繕う。
そんな母を、唯は、体調が悪くて心細くなっているのかな、と妥当に判断した。
「ゆっくり休んで」
慈しむように、そう言いながら美佐子の身体をそっと横たわらせた。
「家のことは唯がやるから、心配しなくていいよ」
枕の位置を調整して、布団を肩まで掛けてやる。立場を逆にした、母親のような自分の振るまいに、
くすぐったい満足を感じながら。
「ありがとう……ごめんね」
「変なの。家族なのに」
「……そうね。お母さん、おかしいわね」
「ゆっくり休んで、早くいつものお母さんに戻ってね。じゃないと、おにいちゃんも心配するよ」

「………そう…ね」
竜之介のことを持ち出した時に、美佐子の瞳に揺れた翳りに唯は気づかなかった。
「晩ご飯は唯が支度するから。ちゃんと休むんだよ」
くどいように念を押して、唯は部屋を出ていった。
「………………」
遠ざかっていく足音に美佐子は耳をすませて。
そして、ホッと緊張を解いた。
自分を案じてくれる娘に対して申し訳ないと思いながらも。美佐子は唯の目が消えたことに
解放された思いを感じずにいられなかった。
無論、美佐子が安堵したのは、唯に気づかれずに済んだからだ。
唯が傍にいる間、この昼に自分の身に起こった出来事、悪夢のような凶事の痕跡を
見つけられてしまうのではないかと、脅えていたのだ。

……あの後。
窓辺での交わりの果てに、凄まじいまでの絶頂に追いやられた後。
美佐子は再び意識を失った。
セックスで、強烈な快感によって失神する―そんな絵空事としか思っていなかったことを
美佐子はわずかな間に二度も体験させられたことになる。
そして、二度目の失神から覚めた時。
美佐子は車の助手席に座っていた。
ちゃんと服を着て、男の車の助手席に座っている自分を発見して呆然とすることになった。
しかも車は、『憩』の前に停められていたのだ。
一瞬、ほんの一瞬だけ、すべてが悪い夢だったのでは? というあさはかな希望が胸に沸いた。

「ようやく起きやがった。ホントに、ここまで一度も目を覚まさないってんだから。
 よっぽど遠くまで飛んじまってたみたいだな」
しかし、運転席の男の科白が、美佐子の儚い希望を打ち砕いた。
いや、男の言葉を待つまでもなく、美佐子自身の身体の状態が、
すべてが現実の出来事であったのだと、雄弁に語っていた。
指も上げられないほどの疲労、節々に残る鈍く重い痛み。ベタついた肌。
しかし、そうであれば、やはりこの場の状況が美佐子には不可解だったのだが。
「いくら呼んでも起きないからよ。仕方ないんで服を着せて、重たい体を担いで。
 車に乗せて、ここまで送ってきたってわけだ。感謝しろや」
恩着せがましい男の説明に、ようやく状況を理解する。
我が身のていたらくに、また新たな恥辱を噛みしめながら。
美佐子は感情を堪え、必死に気概をかき立たせて、男を睨んだ。
「テープを返して」
「ああ、そうだったな」
男はあっさりと頷いて、懐から取り出した盗聴器ごと渡した。
「確認するか?」
聴きたくはなかったが、そうは言っていられない。
美佐子はイヤホーンを耳にあて、すべての元凶である録音を数瞬だけ聞いて、
すぐに再生を止めた。おぼつかない手つきでテープを取り出そうとすると、
「機械ごと持ってけよ。今日の記念にプレゼントするぜ。若い彼氏とのお遊びに使い道があるかもよ」
最後の最後まで、男のゲスな言いぐさは変わらない。

美佐子は、この期に及んで言い争う気にもなれず、
「これっきりよ。二度と私たちのそばに近づかないで」
それだけを念押しした。
「わかってるって。俺も警察沙汰はごめんだからな。録音テープもそれだけだ。コピーはない」
「…………」
これですべてのことは終わった。あとは一刻も早く男から離れるだけだ。
美佐子はドアを開けて、車を降りた。よろけそうになる足を路面に踏ん張った。
「楽しかったぜ」
笑いを含んだ声が背中に掛けられる。
美佐子はそれを無視して、叩きつけるようにドアを閉めた。
そして、家へと向かって歩き出した。フラつきそうになる脚をこらえ、
背を伸ばすことに気力をふりしぼって。
背中に男の視線を感じたが、美佐子は一度も振りかえらずに家に入った。
扉を閉ざし、すぐに内鍵をしめて。カチリと外界と切り離される音を聞いた途端に。
美佐子は、その場にヘタリこんでしまった。
扉に背をもたれて、見なれた家内の眺めを見やった。
帰ってきた。その実感が胸にわいた。
まるで数日間も数週間も離れていたような懐かしさと深い安堵を感じた。
「……いけない」
美佐子は頭をふって、重い腰を持ち上げた。
まだ気をぬいていい段階ではない。唯や竜之介が帰ってくるまでに……。
美佐子は思考を忙しくめぐらせて、疲れ果てた身体に鞭打って動きはじめた。

居間に入って時計を見ると、午後二時をまわったところだった。
男とは三時間ほど一緒にいたことになる。やはり、たったそれだけとは信じられない気がしたが。
この時に問題とすべきは過ぎた時間ではなく、残された時間だった。
唯や竜之介は、早ければ、あと一時間あまりで帰宅する。
それまでに変事の痕跡を消しておかなければならない。
美佐子は、まず自室に入って。手にした盗聴器を鏡台の引き出しの奥へと押しこんだ。
無論、破棄しなければならないものだが。それは後でもできる。
なにより先にしておかなければならないこと。
それを済ますために、美佐子は急ぎ浴室に向かった。
脱衣所の鏡に、ゲッソリと憔悴した女の顔が映った。
美佐子はシャツ・ブラウスのボタンを外した。ブラジャーは着けられておらず、
白い胸肌が現れた。ポツポツとこびりついた汚れは男の欲望の残滓だ。
思わず、それを爪で掻きむしりながら、汗の臭うシャツを脱ぎ捨てた。
同様に荒っぽい動作でスカートを下ろした。
ブラジャーは着けられていないのに、ショーツは履かされていた。
意識のないうちに、そんなことまで男の手に任せてしまったことに気づいて、
美佐子はカッと胸を灼いた。
無論、それは気遣いとは真逆の悪意に満ちた行為に違いないのだ。
脱ぎ下ろす時には、布地に貼りついた恥毛が引っ張られて、痛みが走った。
貼りつかせたのは、ショーツにヘバりついた男の欲望の証しだ。
小さな下着の全面に白い乾いた跡になっているのが、美佐子の顔を拭いた時のもので。
股布の部分に、ドロリと半乾きの状態で付着しているのが、美佐子の膣から流れ出したものだった。
それは、これ以上はない凌辱の証左で。美佐子が体験した悪夢のような時間が、
現実のことだと告げていた。

「……クッ!」
思わず、抑えていた感情が激発して、美佐子は脱いだショーツを床に叩きつけようとして。
その無意味さと、床を汚してしまうおそれに気づいて、思いとどまった。
気を鎮め、脱いだ衣服をひとまとめにして洗濯機に放りこもうとして。
しかし、その動きも途中で止めた。
洗って……また着るというのか? 
そんなことは出来ない。汚れは落ちても匂いは消えても、二度と身に着ける気にはなれなかった。
美佐子は服を手に、裸のまま、脱衣所を出た。
急いで日常を取り繕わなければという意思とは矛盾していたし、無人とはいえ、全裸で家の中を
動きまわるなどとは、平生の美佐子からは到底考えられない行動だったが。
この時の美佐子は、そうせずにはいられなかった。
キッチンに向かい、二重にしたゴミ袋の中に服を放りこんで、厳重に口をしばった。
そして、目立たない場所にゴミ袋を押しこんだ。
そうして、ようやく気を済ませて。美佐子は浴室に戻った。
真っ直ぐに浴室に駆けこんで、水量を最大にした熱いシャワーを頭から浴びた。
肌の上を流れる熱い湯の感触に、蘇生するような思いを味わいながら、
両手を、いたぶられた全身に慈しむように滑らせて汗を流した。
それから大量のソープを含ませたスポンジで身体中を磨いた。徹底的に。
乳房や尻に洗浄の手を伸ばせば、そこを這いまわった忌まわしい男の手がいやでも思い出されて、
悔し涙が滲んだが。
こうして何重にも被せられた穢れの膜を一枚一枚こそぎ落としているのだと自分に言い聞かせて、
美佐子は懸命に手を動かした。

だが、最も端的に汚された場所、女の部分を洗う時には、そんな自分への励ましも役に立たなかった。
浴室のタイルの上に、ベッタリと尻をついて、大きく両脚を広げて。
蹂躙された部分に、怖々と手を伸ばして。挿しこんだ指で、男の注ぎこんだものを掻き出す。
そんな行為を演じねばならない自分の惨めさが胸に迫って、美佐子は耐え切れず嗚咽の声を洩らした。
男の欲望は多量だった。掻き出しても掻き出しても、なおも溢れ出た。
美佐子はヒリヒリとした粘膜の痛みに耐えて指を動かしながら、妊娠の恐怖に脅えずにはいられなかった。
時期的には安全なはずだが。これだけ大量の痕跡を見せられると、心許なく思えて。
男のなすがままに膣内への射精を許してしまった己が不覚を美佐子は呪った。
……そこに触れることで、必然的に思い出された男の肉体の特長については、頭をふって意識から追いやった。
それでも、どうにかその部分の洗浄を終えて。
最後に、ここも手荒な扱いを受けた髪を入念に洗って。
全身を桜色にそめて浴室を出る時には、なんとか再生を果たしたような安堵が美佐子の胸にわいた。
だが、その思いがここまで美佐子を動かしていた気力を切ってしまった。肉体はとうに限界を超えていた。
どっと押し寄せた疲弊が、湯上りの美佐子をフラつかせた。
グラグラと回る視界の中、手さぐりに戸棚から日頃はほとんど使用しないバス・ローブを引っ張り出して
羽織ると、美佐子は這うようにして自室に向かった。
ようよう部屋に辿り着いて、ベッドに倒れこんだ瞬間に意識が途絶えた。
そして唯によって発見されるまで、昏睡のような深い眠りに落ちていたのだった。

……そして今、唯が出ていったばかりの寝室で。
(……間に合った……)
美佐子は、そんな安堵を噛み締めていた。
必死の働きの甲斐があって、唯には事実を気づかれずにすんだ。これで、竜之介に対しても大丈夫だろう。
長い一日が、これでようやく終わる。終えることができる。
本当に……なんという日であったろうか。
朝、目覚めた時には。昨夜結ばれた竜之介との誓いに、懊悩しながらも歓喜を感じる自分がいたのに。
それからわずか半日の間に、美佐子は悪夢にも見ないような地獄を味あわされて。
いまはこうして半病人のような状態で横たわっているのだ。
突如、自分を巻き込んだ災厄。
なんと凄まじい暴虐だったろう。なんて恐ろしい男だったろうか。
(……でも、すべては終わった……終わったのよ)
美佐子は胸中に呟いて、鮮明に蘇ろうとする恐怖を抑えつけた。
そう。すべては終わった。美佐子は犠牲と引き換えに、それを終わらせることが出来たのだ。
…………本当に終わったのだろうか?
あんな、恐ろしい男が、本当にこれですべてを終わらせるだろうか?
卑劣な男だ。欲望のためには手段を選ばず、それを恥じようともしない。
しかし、そんな非道さ以上に、生々しい恐怖として美佐子を襲うのは。
男の、狂的なまでに執拗な女へのいたぶりと。その肉体の特長、そして人間ばなれしたエネルギーだった。

目蓋に焼きついている。男の肉体の魁偉さと禍々しいフォルム。
それは美佐子の女にもまざまざと刻みこまれている。張り裂けるような太さと、息つまるような深さ。
それが呆れるほど長い時間をかけて、美佐子を蹂躙して。
最後には、これまた人間ばなれした爆発を浴びせられて。
(……あんな男がいるなんて……)
植えつけられた記憶はあまりに鮮烈で。美佐子は恐怖に身震いして、同時に息苦しいような感覚を覚えた。
そして、それに連らなって思い出さずにはいられなかった。
そんな獣のような男に思うままにいたぶられて、自分がどんな醜態を晒してしまったかを。
(……アァ……)
美佐子の眼から涙が零れて。こめかみを伝っていった。
女に生まれたことが、これほど恨めしく思えたことはなかった。
これで……自分は完全に竜之介の想いに応える資格を失ってしまったのだと。
(……竜之介くん……ゆるして)
いまだ、このベッドには彼の匂いが残っているように思えるのに。
せめて今は、その温もりの残滓の中で疲れた心と身体を休めたくて。
美佐子はシーツに頬を擦りつけ、深く息を吸った。
彼の温もりの名残に抱かれるような錯覚を、わずかな慰めとして美佐子は目を閉じた。
……やがて、傷心も懊悩も、深い心身の疲労に呑みこまれて。
美佐子は安らかな寝息を立て始めた。

帰宅して、唯から美佐子が寝こんでいると聞かされた竜之介は、らしくもない狼狽を見せた。
慌てて、様子を見に行こうとしたが、
「ダメだよ。いまは眠ってるから。そっとしといてあげないと」
唯に、そう言われて、渋々引き下がった。
しかし、唯の用意した夕食をふたりでとっている間も、
「……本当に、大丈夫かなあ、美佐子さん」
何度も、そんな言葉を繰り返した。心配そうに美佐子の部屋の方を見ながら。
「もう、おにいちゃん、さっきからそればっかり」
「だって、さ」
「疲れが出ただけだって、お母さんも言ってるし。ゆっくり休めば元気になるよ」
「でも、いままで、こんなことなかったじゃないか」
「……うん」
そう言われると、唯も不安が頭をもたげてくる。
「そうだよね……お店と家のことで大変なのは、もとからだし……。
 お母さん、なにかあったのかな?」
(あ、ヤバい)
竜之介はヤブヘビに気づいた。
「な、なにかって?」
「わからないけど……。おにいちゃん、なにか知らない?」
「しし、知らないぞ、全然」
実は、ハッキリとした心当たりがあるだけに口調が怪しくなってしまう。
「あああ、やっぱりさ、店と家事の両立はタイヘンだし。疲れがたまってたんだよ」
結局、先程の唯の言葉をそのまま返して、話をまとめようとする。

幸い、唯は竜之介の不自然な態度には気づかなかったが。
「だいたい、おにいちゃんがいけないんだよ」
やおら矛先を向けて、竜之介をまたギクリとさせた。
「な、なんでだよ?」
「いつまでも進路を決めないから。お母さんも安心できないんだよ」
「なんだ、そのことか。それなら…」
「え? おにいちゃん、進路決めたの?」
「うん、いや、まあ……」
何故か口ごもる竜之介に、唯は不満顔で、
「唯には教えてくれないの?」
「そんなわけないだろ。ただ……」
チラリと、美佐子の部屋の方を見やって、
「うーん、やっぱり美佐子さんもいる時に話すよ」
「ええ~。ケチ」
「ケチとかじゃなくって。やっぱ大事な話だからさ」
その後も、なんとか聞き出そうとする唯の追及をいなして、竜之介は胸のうちを明かさなかった。
……夕食後、唯が風呂に入ったスキに、竜之介は美佐子の部屋へと向かった。
「美佐子さん……?」
目覚めていれば聞こえるという程度のノックと声で呼んでみたが。
ドアの向こうはシンと静まって。なんの反応もなかった。
それに少しだけ残念そうな表情を浮かべたが。
竜之介は素直に引き下がって、自分の部屋へと戻った。

翌朝。
竜之介は普段より一時間も早く起き出して、階下へと下りた。
キッチンで忙しく立ち働く美佐子の姿を見つけて、自然と頬が綻んだ。
「おはよう、美佐子さん」
ちょっと照れくさい気がしたのは、こんな余裕を持って朝の挨拶をしたことなど
ほとんどなかったからだが。
案の定、意外な時間に声を掛けられた美佐子は、ビクリと驚いたように振りかえった。
「竜之介くん……」
「おはよう。もう体の調子はいいの?」
美佐子の驚きに、いたずらを成功させたような楽しさを味わいながら、
竜之介は気にかかることを確認した。
「え、ええ、もう大丈夫よ。ごめんなさいね、心配かけて」
安心させるように笑顔を見せて。すぐに美佐子はまた竜之介に背を向けて、手を動かしはじめた。
その挙措に滲む微妙なぎこちなさを、竜之介は感じとれなかった。
それよりも、美佐子が自分に向けた笑顔に心を奪われて、立ちすくんでしまっていた。
(……なんだか…今日の美佐子さんは、すごく色っぽいな……)
病み上がりだからだろうか? などと不謹慎なことを考えてしまう。
実際、美佐子の面には、一晩の休養では拭いきれなかった憔悴の翳が残っていた。
それを隠すために、化粧もいつもより念入りに施されていて、竜之介の感じた印象は、
そのせいもあったのだが。
とにかく、この朝の美佐子には、これまで見せたことのない艶めきがあった。

「……今日は、ずいぶん早いのね?」
向こうむきのまま、美佐子が言った。
「う、うん。美佐子さんの体調が気になったし……」
それに、と竜之介は少し口調を改めて、
「話したいことがあったんだ。美佐子さんに」
「私に? なにかしら」
聞き返して。しかし、依然として美佐子は竜之介の方を見ようとはしない。
それに微かな不満を感じながらも、竜之介は続けた。
「俺、進学することにしたんだ。もちろん、今からじゃ一年は浪人することになるけど。
 来年には必ず希望の大学に合格する。大学でも頑張って勉強する」
一晩暖めていた決意の言葉を、ほとんどひと息に竜之介は告げた。美佐子の背に向かって。
「進みたい道もあるんだ。そこで早く一人前の男になるように、俺、頑張るから。
 だから、待っててほしい」
昨日、唯に対しては意志を語らなかったのは、最初に美佐子に聞かせたかったからだった。
自分に、その決断を下すきっかけを与えてくれたのが美佐子だったから。
美佐子に相応しい男になるという決意が、自分の獏然としていた志望に明確な道を作ったのだから。
青臭い言上だとは自覚しても。これがいまの自分が表せる精一杯の気持ちだから。
竜之介は、竦むことなく自分の決意を口にした。

「………………」
だが、美佐子からはなんの言葉も返ってこない。竜之介に背を向けたまま。
忙しく動いていた手は止まり、少し俯くようにして。
竜之介は困惑する。具体的にどういう反応を期待していたというわけでもないが。
それにしても、一言も返してもらえないのでは立つ瀬がないというか。
「あの…」
うかがうように声を掛けようとした時、ようやく美佐子が振り向いた。
「……え?」
その顔が強張って、蒼ざめているように見えて、竜之介を驚かせたが。
しかし、次の瞬間には、美佐子はニッコリと微笑んでみせた。
「おめでとう。竜之介くんも、ようやく自分の道を見つけたのね」
「え? ああ、うん」
「竜之介くんなら、その気にさえなれば大丈夫だと思っていたけど。よかったわ」
……なんだか、微妙に話をズラされている気がした。
美佐子の言葉からは、竜之介の決意の中の一番大きな部分、美佐子自身のことが
抜け落ちているように聞こえた。
「お、俺は、美佐……」
「ああーーーーっ!? おにいちゃんがこんな時間に起きてるーーっ!?」
慌てて確認しようとした竜之介の言葉は、突然のかしましい声にかき消された。
「どうしたの? どこか具合でも悪いの?」
「……なんで、早く起きると具合が悪いことになるんだよ? 逆だろ、普通」
闖入してきた唯に、竜之介はため息をついて。それ以上の美佐子との会話を諦めた。

「だって。いっつも唯がいくら呼んでも起きないのに」
「……美佐子さんに話すことがあったんだよ」
「あ、お母さん。もう起きても平気なの?」
いまさらながらに美佐子の体調を訊く唯。薄情なようだが、それほど竜之介の早起きが意外事であったらしい。
「もう大丈夫よ。心配かけたわね」
「まだちょっと顔色が悪いみたい。無理しちゃダメだよ」
ひとしきり気にかけて。かと思うとクルリと竜之介に振り向いて。
「それで? お母さんと、なにを話してたの?」
「朝から失敬なことをいうヤツには、教えてやらない」
「ええ~、ズルイよ。あ、進路のこと? 唯にも教えてよう」
「竜之介くんね、進学することに決めたんですって」
とりなすように、美佐子が唯の疑問に答えた。
「本当? おにいちゃん進学するの?」
「……まあ、とりあえずは浪人生活だけどな」
……その後、いつもより時間の余裕のある朝食の間、竜之介は唯の質問責めにさらされた。
まあいいか、と美佐子にも聞かせるつもりで、竜之介は今後の予定について答えた。
話しながら、時折思い入れをこめた目を美佐子に向けた竜之介だったが。
何故か、美佐子と目が合うことはなかった。

いつにも増して賑やかだった朝の時間が過ぎて。
唯と竜之介は連れ立って、登校していった。
美佐子は食卓の椅子に座って、思いに沈んでいた。
唯と竜之介に見せていた微笑は消えて、深い懊悩と憔悴が、その面には浮かんでいた。
昨日も……この時間をこんな風に過ごしていたことを思い出す。
しかし、同じ場所で同じ姿勢で、やはり同じように思い煩いながらも、
その内実には天と地ほども差があった。
今朝の竜之介の言葉を、美佐子は思い出している。
その時の彼の顔は、どうしても見ることが出来なかったけれど。
真っ直ぐな、キッパリとした声の響きが耳に焼きついている。
辛かった。
竜之介のことを愛している。それは、いまも迷いなく言い切ることが出来る。
(……でも、私には、もう彼の想いに応える資格は……)
ない。ないのだ、と思う。
それは脅迫に屈して、身体を汚されたからではなくて。
望まぬはずの行為の中で、自分が演じてしまった致命的な屈服、敗北。
あんな卑劣な男に、言いように弄ばれて。なのに自分は快楽を感じてしまった。
いや、そんな生易しい言葉では済まないだろう。あの部屋での自分の狂態は。
そう、狂ってしまった。経験したこともない悦楽にさらされて。
自分の中に、あんなにも貪婪な“女”が眠っていたことを初めて思い知らされた。

一夜の昏々たる眠りの後にも、美佐子の身体からは重い疲労が抜けきっていなかった。
そして疲れ以上に美佐子をやるせない思いにさせるのが、そこかしこに残る痛みだった。
特に。亡夫との営みのすべてを合わせたよりも酷使されたように思える女肉は、
いまだ疼くような痛みをはらんで。いまでも太いモノを含んでいるような感覚があった。
それらのことごとくが、美佐子に忌まわしい記憶を遠ざけることを許さない。
なにより情けなく口惜しいのは。
疲れや痛みの底に、確かな充足を感じてしまっていることだった。
いまさらにして、自分の身体は十年の独り居に渇いていたのだと気づかされた。
……だから、仕方のないことではないか、と自分に言ってみる。
餓えた肉体に、たとえ忌み嫌う相手による凌辱ではあっても、逞しい牡を迎えさせられたのだから。
自分の錯乱も仕方のないことではなかったか、と。
女なのだから。長く忘れていたけれど、自分とて生身の血肉を持った女であるのだから。
……美佐子の思考は、どこにも行き着きようもない種類のもので。
だから停滞し循環した。グルグルと回るその中心にあるものは……あの男。男による凌辱の記憶。
その逞しさと無尽とも思えるエネルギーを、身体が覚えている。鮮明に。
(……でも……あの男とのことは、もう終わったこと……)
ほんの一瞬、思索が危ういところを掠めて。美佐子は強くかぶりを振った。
(馬鹿な)
無論、それでいいのだ。あの男とは二度と逢うこともない。逢いたくもない。
忌まわしい記憶は、自分の中だけに葬って。あとは時が傷を癒してくれるのを待つだけだ。
だが。
時間が傷口を塞いでくれるまで。悲痛や恥辱以外のものに悩まされることになるのではないか?
そんな情けない予感が胸にわいて、美佐子を惨めにさせた。

そして、そんな女の弱さを自覚すれば。
(……竜之介くん……)
愛する男へと縋りつきたくなってしまう。
いけない、と思い、すぐに、何故いけないのか? と反問する。
彼は、竜之介はなにも知らない。自分が受けた汚辱のことは。
このまま事実を封印して、傷を癒すのに彼の優しい手を借りる。
そう望むのは、そんなにもいけないことなのか?
……駄目だ。そんな偽りを裏切りを持ちこめば、ふたりの関係に必ず影を落とすことになる。
なにより、自分の心が耐えられそうもない。
ならば。いっそすべてを打ち明けてしまえば?
彼なら、竜之介ならば、事実のすべてを受け入れた上で、自分を抱きとめてくれるのではないか?
いや。たとえ赦してもらえずに、彼が離れていってしまうとしても。
ありのままを告げることこそが、とるべき道なのではないか?
ああ、でもそれは、しょせん自分の苦しみを彼に押しつけるだけの行為なのかも……。
……思考は千々に乱れて、いきつ戻りつして。出口を見つけられず。
(……いまは言えない。竜之介くんにとって、いまはとても大事な時だから。
 余計な負担を与えるわけには、いかない……)
そんな消極的な考えを、ひとまずの結論とする。
結局は、竜之介への想いを断ち切ることが出来ないがゆえの先送りなのだと、自覚しながら。
(……そろそろ、開店の準備をしないと)
時計を確認して、腰を上げた。
どれほど乱れ騒ぐものが心にあっても、平生通りの生活を送る。そう美佐子は決めていた。
犠牲と引き換えに守った平穏な日常だから、けっして揺るがせはすまいと。


しかし。

トゥルルルル……。

電話がなった。
その瞬間、美佐子はビクッと肩を震わせて。強張った顔で、鳴る電話機を見つめた。
冷たいものが、背を撫でた。
いや、そんなはずはない。臆病になりすぎている。
フウッと息を抜いて、鳴り続ける電話へと向かう。
「……はい」
だが、応対する声は、どうしても探るような調子になってしまった。
そして。
『おお、美佐子か。俺だよ。昨日は楽しかったなあ』
「……っ!?」
受話器から聞こえたのは、美佐子が最も耳にしたくない声だった。
「あ、あなたはっ…」
『ハハ、意外と元気そうだな。別れた時の調子じゃ、まだ腰をヌカして寝こんでるかと思ったが』
横柄な口調もゲスな言いぐさも、すべて忌まわしい記憶の通りで。
美佐子は逆上しかかる感情を懸命に抑えこんだ。
落ち着け。男のペースに乗せられてはいけない。
どうせ、下卑たからかいを浴びせるための電話だ。もう男にはそれくらいしか出来ない。
録音テープは取り返したのだから。


「……なんの用なの? もう二度と私たちに近づかない約束よ」
『そうスゴむなよ。昨日はあんなに熱く愛しあった仲じゃないか』
やはり、そんなことを言いたかっただけか、と。
安堵と共に、耐えがたい嫌悪を感じて。
「切るわよ。二度とかけてこないで」
『おっと。早まらない方が身のためだぜ』
受話器を戻そうとした動きを、思わせぶりな言葉に止められる。
「……なにが言いたいの?」
『昨日のさ、記念写真が出来てるからよ。ひとめ、美佐子にも見せてやりたくてな』
グラリ、と。
美佐子の視界が揺れた。
『覚えてないのか? ああ、美佐子が失神アクメして、気持ちよさそうに眠ってる時に撮ったんだっけな。
 よく撮れてるぜえ。泡ふいて白目を剥いた面も、恥ずかしげもなくおっ広げた股座もバッチリだ。
 まさに『淫乱熟女悶絶の図』ってな感じだなあ。あんまりデキがいいんで、俺ひとりで楽しむのは
 勿体なくってさ。取り合えず、モデルの美佐子に見せてやろうと思ったんだが。
 今から出てこれるだろ? 無理ってえなら郵送するか、どっかで娘にでもことづけてもいいんだが。
 おーい? 美佐子、聞いてるかあ?』

……この日も。前日と同様に。
開店時間を過ぎても、喫茶店『憩』はひっそりと扉を閉ざしたままだった。

 

 

 

 

 







 

 

 

 

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