鳴沢美佐子3


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数日後。深夜。

「俺は、美佐子さんが好きだ。女として。だから美佐子さんを抱きたい」

竜之介がキッパリと言い放った言葉は、懸命な演技で彼の想いをそらし、
自らの想いを隠そうとする美佐子の心の鎧を打ち砕いた。
全ての禁忌やしがらみを捨てたふたりは、強く抱きしめあった。
年齢や立場を超えて想いを通じ合った、一対の男と女として。

それは閉ざされた部屋の中での一幕。
いまはまだ誰にも明かすことの出来ない、秘密の誓約。

……のはずであったのだが。

「……クク……」
住宅街の闇の中に。今夜もその不審な車は停まっていた。
ある日を境に、車の出現する時間帯は昼から夜へと変わっている。
正確には、喫茶店『憩』の閉店時間に現れて、そのまま朝まで。
「……ククク……」
ハンドルに突っ伏すようにもたれた男の肩が小刻みに揺れる。
片方の耳に挿しこまれたイヤホーンに、男の全神経は集中していた。
そこから聞こえているのは、数十m離れた密室での会話。
「……“女としてスキだ。だから抱きたい”か。やるねえ、最近のガキは」
男は喜びに上気した顔を上げて、灯りを落とした『憩』を見やった。
その頬は、なおも堪えきれぬ笑いにヒクついている。
「芳樹に、ボーナスをはずんでやらなきゃなあ」

 「……っと」
男が笑いを鎮めて、真剣な表情になる。
最高級の盗聴器が伝える美佐子の寝室の状況。
ふたりの会話は間遠になって、代わりに艶めかしい息づかいが聞こえ始めた。
「まあ、そうなるわな……」
生意気なガキに、美佐子の身体を先に賞味されるのはいまいましいが。
“ネタ”としては、これで万全なものになったといえる。
『……あぁ……竜之介く…ん……』
「ケッ! ガキ相手に気分出しやがって。淫乱年増が」
毒づきながらも、男の体も盗み聞く情事に反応していた。
ズボンの前を突き上げたモノに手を伸ばしかけて、
「……って、ここまで来たら、寂しくシコってる場合じゃねえぞ」
グッと思い留まる。
芳樹を使って、盗聴器を仕掛けるのに成功してから、
毎夜美佐子の独り居の様子を余すところなく聞いてきた。
意外な飲酒癖を知り、酔った美佐子の洩らす愚痴や、
意味深な嘆息などを聞くだけでも、かなりの昂奮があって、
猛りはやる逸物を手であやさずにはいられなかった。
ましてや、今届いているのは、まごうことなき情事の実況である。
アテガキの対象としては、これ以上ないものではあったが。
「これで、美佐子は手に入ったも同然だからな。ここは我慢だ」
溜めに溜めた欲望も情念も、まとめて美佐子の中にブチこんでやらにゃあ、と。
「……とはいえ、こりゃあ生殺しだなあ」
ならば聞くのを止めればよさそうなものだが。
無論のこと、音声は全て録音中なのだし。
だが、やはり、そうとは簡単に割り切れないから、男も落ち着かない。

 しかし、男の懊悩は意外なかたちで救われることになった。
『……待って!』
美佐子の切迫した声が聞こえて。
その後は、グダグダとしたやりとりが続いた。
どうやら、美佐子はここでは最後まで許すフンギリがつかなかったようだ。
そして、男からすれば信じられないことに、
竜之介も美佐子の気持ちを汲んで、素直に引き下がってしまったのだった。
「…………はあ?」
竜之介が出ていく気配を最後に、シンと静まった部屋の様子を聞きながら、
男は呆気にとられていた。
まあ、美佐子のような女には、いかにもな行動とも言えるだろうが、
「おとなしく引き下がるかね? そこで」
まったく、血の気の多い若者とも思えない分別である。
「……まあ、これが、いわゆるひとつの、“愛”デスカ?」
呆れの後に、男の顔に浮かんだのは冷笑だった。
「本人がそれで納得すんなら、いいけどよ。つーか、言うことなし」
結果的に、バッチリな“ネタ”は手に入ったし、
ガキにお先を取られずにも済んだしで、
確かに男からすれば文句のつけようがない展開だった。
「……さあて、そうとなりゃ明日に備えて、今宵は撤収だな」
録音を止め、耳からイヤホーンを外した。
視線を、もう一度、美佐子の家の方へと向ける。
無論、その家はひっそりと静まって、今夜その一室で起こったことなど、
うかがうよしもない。
「待ってろよ、美佐子」
ニンマリと口の端を吊り上げて、男が宣告する。
車を出そうとして、助手席のシートに置かれたままの盗聴器に気づいた。
「っと、いけね。大事な大事な“ネタ”が詰まってるんだからな」
そそくさと取り上げて、主電源を切り、胸ポケットにしまいこんだ。

『……竜之介…くん……』
電源が切られる寸前にマイクが捉えた声は、誰にも聞かれることはなかった。

 「いってきまーす」
朝の慌しい時間を締めくくるように、明るい声が響いた。
「はい、いってらっしゃい。気をつけてね」
美佐子は玄関口に立って、制服姿の唯を見送る。
その横を、今朝もまた唯に急かされて、ようやく支度を整えた竜之介が出ていく。
「……あ、いってきます」
いつも通りの挨拶は、しかしどこかぎこちなかった。
それは無理もないことだったろう。
前夜の出来事を思えば。
「はい、いってらっしゃい」
だが、答えた美佐子の表情も声も、まったく普段と変わりないものだった。
そんな美佐子に、竜之介はホッと安堵するような、
どこか物足りないような複雑な感情を沸かせたが。
ん、とすぐに気持ちを切り替えて、
「いってきます」
もう一度、今度はしっかりとした声で告げて、正面から美佐子を見た。
その真っ直ぐな意志に満ちた視線に捉えられて、
美佐子の胸がドキンと大きな鼓動を打った。
「……あ」
瞬間、意味深長な雰囲気が、その場に生じたが、
「おにーちゃん! 早くしないと遅刻だよ!」
先に出た唯が呼ぶ声で、奇妙な緊張は破られた。
「わかってるよ!」
苦笑まじりに竜之介が叫び返して、玄関を飛び出していく。
それは、見慣れた朝の光景。何年も繰り返してきた。
しかし、その場に佇んだまま、ふたりを見送る美佐子の瞳には、
これまでと違った複雑な感情が揺れていた。

「………………」
家の中に戻って。
美佐子は、使われた食器が残ったままの食卓の椅子に座って、
しばし物思いに沈んだ。
今しがた見送った、子供たちの姿を思い浮かべる。
並んで歩く竜之介に、しきりに話しかける唯の姿。
じゃれつくような、どこか甘えかかるような。
唯の想い―無論、美佐子はそれを知っていた。
何年も前から、多分唯本人が自覚するよりも早く、
娘が“おにいちゃん”に向ける感情に気づいていた。
そして、母として、いつか唯の想いが竜之介に届くことを願っていた。
願っていた……はずなのに。
どこで道を違えてしまったものか。
竜之介が選んだのは、唯ではなくて美佐子だった。
そして、美佐子も竜之介の想いを受け入れてしまったのだ。
(そう……私は、彼の心を受け入れてしまった……)
それこそが美佐子にとって、一番信じがたいことだった。
拒むべき理由はいくらでもあった。
親子ほど離れた年齢。そして、実際に母親と息子のように接してきた関係。
彼の想いが、一過性の熱病のようなものではないのか? という当然な疑い。
そして、なによりも唯の想い。
拒むべき理由ばかりが美佐子にはあったはずなのに。

だが、竜之介は美佐子の桎梏の全てを打ち砕いてのけた。
拒むために演じる擬態のことごとくを跳ね返されるごとに、
美佐子は自分を縛った鎖が千切れていく音を聞いた。
そして最後には、剥き出しにされた女としての自分だけが残った。
若者からの求愛を受けて、歓喜に震える女が。
そうなのだ。
彼を受け入れてしまうことに、どれだけの懊悩を感じようとも。
なにより強い感情は、喜びなのだ。
「……竜之介くん……」
声に出して、その名を呼んでみる。
それだけで、痛みにも似た熱が美佐子の胸に走った。
グッと自分の肩を抱きしめて、その熱さに耐える。
腕に押された乳房が、ブラウスの下で柔らかくたわんだ。
彼の……大きな手が触れた胸。
「……ン……」
どうしても……思考は昨夜の記憶へと収束していく。
彼の体……息づかい……匂い。
逞しかった。熱かった。
ひとつひとつを思い浮かべるたびに、身体の奥の熱が増していく。
あの後、美佐子は一睡もしていない。眠れるはずもなかった。
汗を吸ったシーツの上で、火照りの引かぬ身体を煩悶させて朝まで過ごした。
ともすれば、手が乳房や股間に伸びようとするのを、
美佐子は懸命に自制して、朝を迎えた。
ここで情欲に流されるのは、自分の身勝手な願いを聞き入れて、
踏みとどまってくれた竜之介の心を裏切ることになると。

竜之介と最後の一線を越えることを拒んだ時。
美佐子は、亡夫への想いを口にして、もう少しの猶予を竜之介に求めた。
それもまた嘘ではなかったが。
本当は、夫よりも唯のことを慮ってのことであった。
唯の知らぬ間に、竜之介と最終的な関係を結ぶことは出来ないと思ったのだ。
いずれ、唯には告げなければならない。
自分が竜之介とともに生きることを選択したのだと。
そして、それを唯に告げるのは、必ず自分でなければならないと、美佐子は思い定めていた。
唯は……深く傷つくだろう。
二度と自分を許してはくれないかも知れない。
それはそれで仕方ない、とは美佐子は考えない。
そんな割り切りは許されないのだ。決して。
どれだけの時間がかかろうとも、唯にわかってもらわなければならない。
少なくとも、“仕方ない”などという逃げ方で、
唯の理解を求める努力を放棄することだけは許されない。
“女”としての私は、最後まで娘に譲り通すことは出来なかったけれど。
それでも私はあの子の母親なのだから……。

(……唯に、ちゃんと告げられるまでは、竜之介くんとは……)
これ以上関係を深めないように、と美佐子は思い決めた。
それもまた自分の勝手な取り決めで、彼を苦しめることになるだろう。
唯に対して、いつ、どのようなかたちで事実を伝えればいいのかも、
まだ思案が定まらないのだから。
(でも、彼ならわかってくれる)
昨夜、辛そうな顔で、それでも必死の自制を働かせて、
自分の願いを聞き入れてくれた竜之介のことを思い出す。
あの時は美佐子も必死だったが。今になれば、若い彼に、
どれほどの忍耐を強いてしまったものかと思い至る。
そこにも彼の想いの深さを見た気がして、美佐子は震えるような感動を覚えた。
(……私の方が、我慢できなくなるかも……)
燻るものは依然として身体の中にあった。昨夜からずっと、消えることなく。
「……馬鹿ね」
年甲斐もない、と頬に血を昇らせてしまった自分を叱責して、
美佐子は我にかえって、壁の時計を見やった。
「いけない! こんな時間」
慌てて立ち上がり、手早く片づけを済ませて、店へと向かった。

ブラインドを上げ、簡単に店内を整える。
毎朝の、慣れた作業。
だが、そんな中にも、昨日までと違う自分を感じる。
眠っていないから、少し頭が重く、体も気だるいのに。
それを補って余りあるような活力が自分の中にある。
「……単純って、いうか」
つまりは、手に入れた新しい恋に浮かれてしまっているのだと気づく。
若い娘じゃあるまいし、と気恥ずかしさを感じても、
そんな自分を否定する気にはなれない。
すでに、長い眠りは破られてしまったのだから。
軽やかな足取りで、美佐子は店の外に出た。
「ン。いい天気」
青い空に笑顔を向けて、朝の空気を深呼吸した。
くるりと体を回して、ドアのプレートを『OPEN』に変える。
その時に。その声は背後から聞こえた。
「いま開店かい?」
「はい。いらっしゃ…」
笑顔のまま、振り返って。
美佐子の言葉は途切れ、表情が強張った。
そこに立って、厭らしい笑みを浮かべて、美佐子を見ている男。
忘れられない、とまでは言いたくないが、まだ記憶に新しい顔だった。
「丁度いいや、朝のコーヒーを飲ませてもらおうか」

先日の騒ぎのことなど忘れたような顔で、男が言った。
無論、美佐子にすれば素直に招じ入れられるものではない。
「何の用です?」
キツく男を睨んで、身構えながら質した。
「おいおい、客に向かって、それはないんじゃないか?」
「帰ってください。もう、私には近づかない約束でしょう」
「そう警戒すんなよ。もうヘタなマネはしないからさ」
にべもない美佐子の拒絶にも、男はヘラヘラとした態度を変えなかった。
「また、あの若いのに殴られちゃたまらんからな。
 ようやく、みっともないアザが消えたとこだってのに」
「帰ってください」
「あのボーズ……竜之介だっけ? 俺が言うのもおかしいが、ホネがあるね」
 なかなか男ぶりもいいし。女にもモテるんだろうなあ」
「…………?」
竜之介のことを持ち出して、やたらとほめちぎる男に、美佐子は訝しさを感じる。
「そんな若い男に口説かれちゃあ、あんたが年甲斐もなくノボせちまうのも、
 無理はないわな」
「……なにを言っているの?」
内心の動揺を押し隠して、美佐子は聞き返した。
……どうせ、ゲスな想像で口にしたことに違いない。
昨夜のことを、この男が知るはずがないのだから、そうとしか考えようがないのだ。
だが、男の目に光る、やけに確信めいた色は……?
ゾワリと。美佐子の背を禍々しい予感が走った。
それを見透かして、男はゾクゾクとした愉悦を感じながら、
ゆっくりと、その言葉を吐き出す。
「“オレハ、ミサコサンガスキダ、オンナトシテ、ダカラダキタイ”か。
 あんた、ケツが痒くならなかったかよ? 俺なんざ、聞いてて吹き出しちまったよ」

ガン、と。
後頭部を強打されたような衝撃が美佐子を見舞った。
もちろん、覚えている。たった昨夜のことだ。
いや、たとえ何年何十年たとうと、忘れることなどありはしないだろう。
無骨で無遠慮で不体裁な、でも真実の想いに満ちた言葉。
自分を生まれ変わらせて、これからの生き方を決定づけた言葉。
ふたりだけの記憶の中に、封じこまれるはずの言葉。
そのはずなのに。
「……どうして?」
驚愕のままに美佐子は洩らしていた。それが問わず語りになってしまっていることにも気づかずに。
「まあ、いつまでも立ち話もなんだしよ。中でゆっくりと話をしようじゃないの」
勝ち誇った顔で、男が促した。

カウンターを挟んで、美佐子と男は対峙していた。
ドアのプレートは、再び『CLOSED』に戻されている。
この男と店の中にふたりきりになることには、当然抵抗があったが。
しかし、このまま男を追い返すわけにもいかなくなっていた。
先ほどの、あの言葉のわけを聞かなくてはならない。

「コーヒーくらい出してくれねえのか?」
ジッと殺気走った目を向ける美佐子をよそに、余裕に満ちた男が聞いた。
美佐子は動かず、なにも答えようともしない。
無言で男に釈明を促すようにも見えるが、美佐子の心理には、
うかつなことを言えないという自戒の方が強かった。
チェッと軽く舌打ちした男は、懐から大ぶりな補聴器のような機械を取り出した。
「こいつを聞いてもらえば、話は早いよ」
引き出したイヤホーンを美佐子に差し出す。
「………………」
美佐子は立ちすくんだままで、小さなイヤホーンを凝視した。
怖い。それを耳にあてるのが。
まだ、まさかという思いはある。そんなはずがないという希望が。
だが、それは一秒ごとに弱く小さくなっていった。
もし……最悪の答えが待ちうけているのなら。
そのイヤホーンから聞こえてくるものの察しはつく。
それを確認するのが、怖かった。
「どうした?」
いつまでも動かない美佐子に男が声を掛けた。別に焦れたふうではない。
むしろ、蒼白になった美佐子の怯えを、ジックリと楽しんでいた。
「…………」
ようやく、美佐子が手を伸ばした。
震える指で男の手からイヤホーンを受け取る。
耳穴に挿しこむ、たったそれだけの行為がおぼつかなくて、
取り落としかけたホーンを慌てて拾い上げた。
そんな美佐子の動きを、男が愉しげに眺めている。
やっと、小さなホーンが美佐子の形のよい耳の中心に収まったところで。
男は合図もなしに、再生ボタンを押した。

『あぁ……竜之介、くぅん……』

「っ!!」
短く、引き攣った声を発して。
美佐子は弾かれたような動きで、イヤホーンを耳から引き剥がした。
その一瞬には、心臓が停止したかのように思えた。
その後には、凄まじい早さの鼓動が、ドンドンと頭蓋にまで響いている。
その小さな器具から聞こえてきた音声は。
音量が予想外に大きく、音質も予測より遥かにクリアだった。
まるで、今ここで誰かが耳元で上げた声のように。
いや。
自分自身が、今この場で発したかのような。
まぎれもなく、それは美佐子自身の声であった。
「もういいのか? 納得してもらえたのかな?」
ますます得意の気ぶりを強めて、男が聞いた。
追いこんだ“獲物”を仕留めにかかる。
「違う……違うわ」
追いつめられた“獲物”が最後の抵抗を試みる。
「違う? そうかねえ。登場してるふたりは、『美佐子』と『竜之介』って、
 呼び合ってるけど」
「作り物よ! 私じゃない……私たちじゃない」
何度もかぶりを振って、ひたすらに美佐子は否定する。
「でも、あんたの声にそっくりだと思うんだがなあ」
「違うわ!」
「ふうむ……じゃあ、あんたらに親しい人間に鑑定してもらうか?」
男の言葉に、俯いて首をふっていた美佐子が、ハッと顔を上げた。
「なにを……言うの?」
「やっぱ、娘さんだろうな、唯ちゃんだっけ? あのコなら、
 母親の声を聞き違えたりしないだろう?」

「やめてっ!」
美佐子は悲痛な叫びを上げた。
(あの声を……あんなものを唯に聞かれたら……)
録音された声、客観的に聴かされた自分の声は、
甘い記憶の中にとどめるものとは、あまりにかけ離れていた。
実際には、自分はあんなにも淫蕩な声を上げて、竜之介に媚びていたのだ。
そんなものを、まだなにも知らない、知らせていない唯に聴かれることになったら。
自分のことは、まだいい。どれだけ蔑まれようと恨まれようと。
ある意味、自業自得なのだ。
だが、唯の受ける痛みと悲しみを思うと……。

「……やめて……それだけは」
幽鬼のような顔色で、弱々しく美佐子は懇願した。
それは事実と敗北を認めたことでもある。
「だいたい、話はまとまったな」
ニンマリと笑って。男は煙草に火をつけた。勝利の一服のつもりらしい。
「……これは犯罪だわ」
視線を落としたまま、美佐子が呟く。
言うだけ無駄なことと解っている、力ない声だった。
「そうだな。で? 訴えるか」
「…………」
ダメを押されれば、もう美佐子に続ける言葉はなかった。
しょせん、それは敗北を沁みこませる時間を稼ぐためだけのやりとり。
そうして。
美佐子は最も訊きたくないことを、男に確認した。
「……目的は、なんなの」
「そりゃあ……」
わかりきったことを訊く、と男は鼻で笑って、
「俺も、美佐子さんがスキだからさあ、女として。
 だから美佐子さんを抱きたいわけだよ」
「………………」
全てが、最低最悪の予測に沿って推移するだけだった。
美佐子は、頷きはせず、かといって首を横にも振らずに。
ただ絶望の色をさらに濃くして、目を閉じた。 

 

 

 

 

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