君影ひかりSS4


 その日
 日直の仕事が長引いて、家に帰るのがいつもよりおそかった。
 最近はなるべく、明といっしょに帰るようにしていた。
 私がいると、お父さんは明に乱暴をしないから。
 でもその日は違った。
 日直の仕事があるから、待たせたら悪いと思って。
 先に帰ってて、って言ったのだ。
 でも、あとからなんだか不安にになって、
 私はとても急いで、家に帰った。



夜明けの時代「大魔城学園」
Short story. Episode Hikari.
「10歳と10ヶ月」



 私はお母さんに似ているらしい。
 記憶の中のお母さんは、私よりもずっときれいで大人で、あまり似てるとは思わない。
 でも、お父さんが言うのならそうなんだろう。
 明は私より3つ下で、まだ2年生で。
 お母さんは、明を産んでから、体調があまりよくなくなってしまった。
 去年、お母さんが亡くなった。
 私も明もたくさん泣いた。
 いつも泣かないお父さんが泣いた。
 お父さんが、家でお酒を飲むようになった。
 もともと、仕事の後に外でも飲んでいたからと、言っていた。
 お父さんは、お酒を飲むと何だか知らない人みたいだった。
 お父さんは、明を叩いた。
 お父さんが、部屋を片付けなさいと言って、明がいやだとわがままを言ったから。
 お父さんが叩くのを初めて見た。
 明を叱って、叩くのは、お母さんの仕事だった。
 お母さんの代わりに、お父さんがしたんだと思うことにした。
 でも、お父さんはお母さんよりずっと怖かった。
 なんだかとても、怒っていた。
 お酒を飲むと、お父さんは怒りやすくなる。
 とても怖い。
 明が少しでもわがままを言うと、すぐに叩いた。
 お母さんはパーだったけど、お父さんはグーだった。
 明が泣くと、さらに叩いた。
 あまりにも明がかわいそうで、私がやめてと言ったら、
 お父さんはとてもびっくりした顔をして、すぐにやめてくれた。
 それから、私は明にわがままを言わないように、たくさん注意した。
 お父さんが叱る前に、私が明を叱った。
 明が叩かれることは減った。
 明が叩かれても、私がやめてと言えば、お父さんはやめてくれた。
 私ががんばれば、お父さんも明もつらいことが少なくなるとわかった。
 お母さんがいなくなって、お父さんも大変だから、
 私もがんばらないといけないんだと思った。
 あんなに大好きだったお父さんが、
 気づいたらそんなに好きではなくなっていた。



 家のドアを開けた。
 変なにおいがした。
 私は不思議に思った。
 玄関には、明の靴のとなりに、黒い革靴があった。
 お父さんの靴だった。
 今日は仕事がとても早く終わったのかな、と思った。
 居間につくと、リビングの窓に夕日が差し込んでいて、部屋はキラキラ眩しかった。
 私は、ダイニングのキッチンのシンクの前から、動けなかった。
 夕日が眩しくて、リビングにのそりと立っている影が見えた。
 黒い影がこっちを見た。
 たぶん、お父さんだ。
 頭では分かったのに、私は思わずびっくりして、一歩後ろに下がろうとして、キッチンのシンクに背中をぶつけてしまった。
 かちゃと、流し台につけておいた食器が少し音を立てた。
 まるで、おばけにあったかのように、私はおびえていた。
「◆◆◆、◆」
 ひかり、か。
 黒い影はそう言ったと思う。
 そう聞こえたと思う。
 だけど、
 私にはなんだかよくわからなかった。
 頭がくらくらする。
 玄関でした、変なにおいは、この部屋の方が強いと思った。
「…………っぁ」
 ただいま、と言おうとして、声が出なかった。
「◆◆◆、◆◆◆◆◆?」
 お父さんはなにか言う。
 なんで?
 こわい。とてもこわい。
 黒い影がこちらの方を向いた。
 影は、手になにかを持っていた。
 なんだろう。
「◆◆◆、◆◆◆◆、◆◆◆◆……」
 ぽたりと。
 影が持った、黒いものから、雫が落ちた。
 床に落ちて、染みを作った。
 そういえば、明は。
 私が家に帰ったら、私の「ただいま」よりも先に「おかえり!」と元気よく言ってくれる。
 明は、どこなの。
 私は震えてた。
 足が、うでが。だって。
 ソファの影から、足が見えていた。
 誰かが床に横になっている。
 あの靴下は?
 もちろん知っている。
 だって、洗濯して、たたんで、たんすの明の場所にあの靴下をしまったのは私なんだもん。
「ぁ……」
 声が、出ない。
 涙があふれてくる。
 なのに、夕日に目が慣れて、少しずつ部屋の様子が、
 わかってしまう。
 わかりたくない。
「みんなで母さんのところに行こう、ひかり」
 さっき床に落ちた雫は、黒ずんだ赤い色をしていた。



 明を。
 明を助けないと。
 早く明を連れて。
 タクシー。
 タクシーを呼んで。
 いつも行ってる病院に行って。
 お医者さんに見せないと。
 黒い影が、一歩近づく。
 ぎし、と床が鳴った。
 声が出ない。
 いつもみたいにやめてと言えない。
 こわい。
 あきら。
 こわいよ。
 あきらが。
 黒い影が、さらに一歩近づく。
 私は、流しに手を伸ばした。
 今朝、あきらのために梨を剥いた時に使った果物ナイフ。
 水が気持ち悪いくらいひんやりしていた。
「◆◆、◆…?」
 声が出ないから、こうすれば、止めてくれると思った。
「◆◆◆◆? ◆◆◆…?」
 影は止まらない。
 手が震える。
 切っ先は、揺れながら黒い影の方を指している。
「ぁ…、ぅ…」
 なんで?
 お父さんじゃないの?
 あきらが。
「あ」
 あきらが向こうで倒れているのに。
 やめて。
 やめてよ。
「あ、あ…」
 あきらを、たすけてよ。
 黒い影がずんと、大きく一歩踏み出した。
 限界だった。
 もう、手に力も入らない。
 明を助けたい。
 でも、きっとそれはできない。
 私も、
 お父さんに刺されて死ぬんだ。





 音が
 一瞬消えた気がした。





 どしゃりと、なにかが落ちる音がして、はっとなった。
 次に感じたのは、ほっぺが温かったこと。
 黒い影は、床にうつぶせになって倒れていた。
 数滴落ちていた床の染みは、ダイニングいっぱいになっている。
 その染みの上に、覚えのない真っ白で綺麗な珠が転がっていた。
 ぬるりと、手が滑って、持っていたものが床に落ちた。
 ガシャンって、なんだか嫌な音がした。
 私は、おぼつかない足取りで、黒い影をまたいだ。
 ダイニングを抜けて、リビングへ。
 ソファの影から、ちらりと見えていた足。
 床にあおむけに倒れてる、明を見つけた。
 黒い。
 そう思った。
 明の胸元は黒かった。
 今日、あの子は黒い服なんて着ていない。
 まるで、赤ちゃんがする前掛けみたいに、彼のトレーナーには黒ずんだ染みがあった。
 明は目をつぶっていて、とても静かに寝ている。
 だめだと。
 思った。
 とても、冷静だった。




 私はその日、
 父と弟を一緒に失った。



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最終更新:2019年03月09日 14:19