佐々成政
レベル
50:7体
職業
侍
戦闘開始時セリフ
織田家黒母衣衆参上!
この佐々成政の銃撃に
耐えることができるか?
はっはっは! 誰かと思えば
わしの銃に射抜かれた
○○○○ではないか!
待て!○○○○!
今日こそは我が鉄砲の
餌食にしてくれるわ!
構成
名前 | 種類 | レベル | 初期付与 | 使用技 |
---|---|---|---|---|
佐々成政 | 鉄砲侍 | 50 | ▲ ▲ | 一所懸命、n段撃ち、佐々流狙撃術、つるべ撃ち、蘇生・壱 |
織田工兵 | 刀鍛冶屋 | 45 | 陽動、蘇生・壱 | |
饗談中忍 | 懐剣ニ刀忍者 | 45 | ||
尾張薬種商 | 槍薬師 | 45 | 完全治療、蘇生・壱 | |
国府宮神官 | 懐剣神主 | 45 | ||
尾張陰陽師 | 陰陽師 | 45 | ||
正徳寺僧兵 | 僧 | 45 |
特徴
ドロップアイテム
列伝
内蔵助、陸奥守、侍従。佐々成宗(盛政とも伝わる)の第5子とされる。1539年生。
佐々氏は佐々木氏の末流が上総国佐々庄に移り住み、佐々と名乗ったとされている。佐々木氏の源流は宇多源氏とされている。菅原氏の出で近江国余呉庄から出でたとする説もあるが、こちらはあまり有力ではない。成政の代には尾張国春日井郡比良村の在地領主となっていたが、いつごろ移ってきたのかは不明である。
兄である佐々政次が桶狭間で戦死すると、その後をついで馬廻衆、 黒母衣衆に列せられ、その後各地を転戦することとなる。
1567年、黒母衣衆筆頭となる。その後も各地を転戦し、まさに東奔西走する。長篠の戦では鉄砲隊を率いて武田勢を壊滅に追い込む。
1575年、柴田勝家与力として前田利家、不破彦三とともに10万石を賜る。その後も各地を転戦するが、1579年ごろからは主に上杉勢との戦に従事する。1581年には越中1国を与えられて富山城に寄る。
1583年、信長が本能寺で死亡すると、与力であったことなどから柴田勝家に味方する。しかし賤ヶ岳合戦には上杉勢を抑えるために動けず、秀吉が勝家を滅ぼした後も徹底抗戦の構えを見せるも越中1国を条件に降伏する。
しかし1584年の小牧長久手戦では織田信雄を支持する徳川家康につき、前田利家と戦端を開くも、上杉との2方面戦を強いられ苦戦する。このころ家康と秀吉の戦いは、小牧長久手本戦では家康が大勝するものの、多数の反秀吉派が日和見を決めたこともあり膠着、家康は単独講和を行う構えを見せる。
徹底抗戦を訴える成政は家康への直談判を行うことを決意する。しかし彼の居する越前は東を上杉、西を前田、そして南の信濃は秀吉の勢力圏であり、遠江の家康へ出会うことは不可能に近かった。
成政は厳冬期の立山連峰を超えるという壮挙を行う。後に言う「さらさら越え」である。これを成し遂げ家康と会談する
しかし結局家康は講和、成政は富山にむなしく帰還することとなる。翌年秀吉は自ら10万の大軍を率い富山城を包囲、織田信雄の仲介により降伏、かろうじて越中新川郡の一郡を残されるものの、自身は家族とともに大坂に居住させられ、御伽衆として秀吉に仕えることになる。
後九州征伐で功を上げ肥後1国を任されるが、検地を早急に行おうとするなど、国人の不満をため1588年に国人一揆をおこしてしまう。この責を問われて切腹させられる。
後世では秀吉嫌いとされ、猪武者という具合に描かれる場合が多いが、実際には政務もそつなくこなす人物であり、領地であった越中には彼の行った治水の後が今でも残っている。
しかし、さらさら越えなどの無茶、国人一揆の勃発など、性急すぎる一面が目立つほか、秀吉にくらべるとどうしても見劣りする。生まれてより織田家一筋でいたこともあったのであろうか、世渡り下手と頑ななまでの織田家への忠誠と生来の性急さが、彼の失敗の原因だったのかもしれない。