榊原康政
レベル
60-7
職業
侍
防衛陣
本陣
構成
名前 | 職業 | レベル | 開始時付与 | 特徴 |
---|---|---|---|---|
榊原康政 | 侍 | 60 | ▲ ▲ | 鎧通し、一所懸命、大音声、反計、無印槍撃、活力 |
大樹寺高僧 | 僧 | 55 | 蘇生・壱、完全回復 | |
服部党練達 | 忍者 | 55 | 蘇生・壱 | |
徳川方士隊 | 陰陽 | 55 | ||
砥鹿社神官 | 神主 | 55 | ||
岡崎鍛冶衆 | 鍛冶 | 55 | ||
三河製茶人 | 薬師 | 55 |
特徴
ドロップ
列伝
榊原長政の二男。最初、小平太と名乗っていたが、初陣となった三河一向一揆との戦いで功を挙げ、家康の康の字をもらい康政と名乗る。
1570年姉川の合戦の際、家康の下知を受けた康政は本陣を離脱し、姉川の下流から迂回し、突如として朝倉軍の右側より横撃。
これによって朝倉軍は崩壊し、余勢をかって織田軍を助勢し勝利へと結びつけた。
また、小牧長久手の合戦では、三好秀次隊を撃破して武功を挙げているが、むしろこの時は例の“高札”で後世名を残すこととなる。
家康の関東移封に伴い上野・館林10万石を拝領。
1600年の関ケ原合戦は、秀忠軍に同行したため参加していない。
戦後、秀忠の遅参を許さなかった家康の怒りを解いたのも康政であったと伝えられている。
以後、老中職に就くのだが、「老臣権を争うは亡国の兆しなり」と言い切り、政治に関しては次世代の本多正信や大久保忠隣に任せていたと言われている。
1606年、館林にて病に倒れる。
二代将軍秀忠も医師を派遣したが快方には向かわず、5月14日病没す。
享年59歳。