松永久秀
レベル
65
職業
陰陽
防衛陣
本陣(軍師)
構成
名前 | 種類 | レベル | 初期付与 | 使用技 |
---|---|---|---|---|
松永久秀 | 陰 | 65 | 蘇生・壱、反乱の謀計、狂風、狂風・弐、迅雷、迅雷・弐 | |
松永長頼 | 侍 | 60 | 蘇生・壱、一所懸命、n連撃・改 | |
淡路管の猛者 | 鍛 | 60 | 蘇生・壱、陽動 | |
大峰奥駈行者 | 薬 | 60 | 蘇生・壱 | |
野間左橘兵衛 | 懐剣神 | 60 | 詠唱の韻・極、気合撃・参、後光、僧攻撃術 | |
楠流くノ一 | 忍 | 60 | ||
興福寺高僧 | 僧 | 60 |
特徴詳細
- 反乱の謀計は全体魅了
- 5の神主が僧技能を使ってくる
ドロップアイテム
列伝
前半生は謎に包まれており生年は不明(1510年ごろの生まれの説があるが確証はない)。弾正忠、山城守、弾正少弼。出自は阿波、摂津、山城の説があるが山城西岡説がもっとも有力。
三好長慶の被官により三好政権内の重鎮となる。しかし槍働きは弟の長頼のほうが優れており、権勢を振るうことができたのは弟の武略によるところが大きい。
1556年、摂津滝山城主となる。このころには訴訟取次を行っていた記録が残されている。
1559年には大和に乱入し、当時支配を行っていた興福寺僧官の出である筒井順慶を蹴落とし、大和国信貴山城となり、翌年には大和をほぼ支配し多聞山城を築く。
1562年、畠山氏との争いで主君長慶が窮地に陥るとこれを守護、さらに河内での戦いで畠山軍を大敗させた功により三好政権の中心的存在になる。その後長慶の嫡子義興が病死する。このころから梟雄として徐々に頭角を現してくる。
長慶の弟である安宅冬康を諫言により長慶に殺させ、さらには以前より長慶と軋轢のあった三好三人衆と組んで三好政権を内部より崩壊させる。
主君であった長慶の死後、三好三人衆とともに将軍足利義輝を攻めこれを自害に追い込む。このころから三好三人衆との関係が悪化し、政権内での抗争を繰り広げ、ついには東大寺大仏殿に火を放つ。
1568年になると畿内の情勢は一気に変わることとなる。信長の台頭である。これに久秀は降伏、所領である大和を安堵される。
しかし1571年に入ると武田信玄に通じる。5月、信長に反旗を翻すが、8月には失地回復に燃え、大和に再び戻ってきた筒井順慶が辰市に城を築く。これに対して出兵した辰市の戦いで大敗。
この後筒井氏に押され、筒井城を明け渡したのち、高田城といった松永方の多くの城を落とされ、劣勢に立たされていった上、河内方面には明智などの織田家譜代が出陣して松永を追い詰めていった。
1572年には相次ぐ大地震が大和を襲うが、その中で松永はついに多聞山城に籠城、1573年初頭に名刀、不動国行を信長に献上、恭順する(この一連の戦いで、彼は軍才については決して高くないことを露呈しており、どちらかといえば文官型人物であったことが伺える)。
しかし、その後の足利義昭と信長の対立では、義昭側についていたようで、多聞山城付近にも信長方が乱入することになる。
多聞山城にこもり抵抗するが、12月に降伏、再び大和を安堵される。この仕置からも信長が久秀の才を買っていたことが伺える。ただし多聞山城は没収されている。
1575年、突然に大和守護職を失う(かつて自身が追い落とした筒井順慶が裏におり、巻き返しを図ったと考えられる)。これにより松永は一国の太守から一武将に落ちてしまう。
1576年は石山本願寺との抗争に信長方として参加していたが、その最中に上杉謙信や毛利、本願寺と交渉をしていたようである。
1577年、再び信長に対して反旗を翻すも、信長の軍事力にはかなわず、名器平蜘蛛茶釜を渡すという降伏条件を拒否し、平蜘蛛茶釜を抱き火中に飛び込み戦死。奇しくも東大寺に火を放った日からちょうど10年たった同日の10月10日のことであった。
ルイスフロイスは彼を狡猾と評し(一方で天下の支配者、と評しており、能力は高く評価していたようである)、また後世では乱世の梟雄の代表となっている。しかし誇張された部分も非常に多い。東大寺大仏殿の件は火矢の火が移ったためで意図的ではないという説がある。
また、誇張の可能性が高いため、上では記述しなかったが、十河一存、三好義興が彼の暗殺であるという説も、単なる病死という説がある(三好長慶の死にもかかわっているという説があるが、これは誇張の可能性がさらに高い)。東大寺についていうと、松永がやったとしているのは信長公記や佐久間軍記といった「信長側」の資料であり、大和記には「三好勢が大仏殿を本陣にしたため、そこを夜襲した松永勢の火矢が燃え移った」ともある上、フロイス日本史には、一キリシタン足軽の放火であり松永は関与していないとする(先述したようにルイスフロイスは彼を狡猾と評しているため、狡猾の体現ともいえる東大寺炎上について、彼のせいではないとしているのは興味深いといえる)。ほかの大和側の資料も、同様である。
彼は、実際は立振舞が優雅であり、教養人でもあったとされている。実像を探る際には注意の必要な人物であろう。