前田犬千代
レベル
55:7体
職業
侍
戦闘開始時セリフ
○○○○?
俺の槍技に惚れたのか?
覚えといてやるよ!
織田家赤母衣衆筆頭!
この槍の又左の槍技を
とくとご覧あれ!
・東西戦専用セリフ
おい! もっと目立つ所で
戦おうぜ!
周りに見えねえだろ!
防衛陣
中後陣主将
構成
名前 | 職業 | レベル | 初期付与 | 特殊技能 |
---|---|---|---|---|
前田犬千代 | 槍侍 | 55 | ▲ | 又佐の槍雨、大音声、反計、連撃・改〜五連撃・改、沈黙の霧・壱、蘇生・壱 |
万松寺高僧 | 僧 | 50 | 反射結界 | 全体完全回復、蘇生・壱 |
秋葉流中忍 | 懐剣ニ刀忍者 | 50 | 水遁の術、土遁の術 | |
織田方士隊 | 陰陽師 | 50 | 結界 | |
熱田神宮神官 | 剣神主 | 50 | 反射結界 | 詠唱の韻・極 |
佐々鉄砲練達 | 鉄砲鍛冶屋 | 50 | つるべ撃ち | |
清洲薬師隊 | 薬師 | 50 | 再生 | 蘇生・壱、完全治療、全体完全治療、防御呪霧 |
特徴
- 前田慶次を撃破することにより弱体。撃破すると滝川一益を弱体
- 1は一ノ太刀・極意
- 1を開幕逆転の秘策で ▼ にすると倒しやすい。極み最大鍛冶以外に槍雨が漏れると即死するので鍛冶屋は魅力付与をしっかりとして犬千代を確実に固定する必要がある。
- 1は槍雨の頻度高し。数回連続とかざら
- 1は呪縛状態になっていると反計、沈黙の霧を連打
- 魅力300の陰陽でも1の一所には吸われる
- 2の帰依は成功確率がそこそこ高い。
- 僧の完全回復を通すと非常に時間がかかるので僧は早めに倒しておくと楽。
- 薬師隊の活身は非常に煩わしいので全体喝破を実装しておくといい。
- 槍雨のため弱体前提武将。7を倒すときは徒党構成を考えよう。
ドロップアイテム
備考
列伝
孫四郎、又左衛門尉。参議、権大納言、権中納言、左近衛権少将。羽柴筑前守。前田利昌の4男。生年は1537年〜1539年の間の説が強いが諸説ある。犬千代は幼名である。
前田氏は菅原氏の出とされているが、根拠に乏しく、本人たちが名乗っているだけというものである。さらに利家のころには源氏、平氏とも言っていたため信憑性は非常に薄い。なお、前田玄以とは別の家柄である。
美濃国安八郡前田から出でた家系で、のち尾張国海東郡荒子村の土豪となる。ただしいつごろ移ってきたかは不明である。発祥は尾張国前田村とする説もあるがこちらは信憑性は薄い。
尾張荒子城を根拠地として2000貫を知行していた。
若いころより武芸、特に槍に秀で「槍の又左」などと称されていた。歌舞伎者としても知られていた。1551年から信長に仕えるが、それ以前に見知っていた関係であった可能性が高い。
1552年に萱津の戦いで初陣をした。
その後、赤母衣衆に取り立てられるが、1559年に同朋衆であった捨阿弥(あまり知られていないが彼と信長は異母兄弟である)と諍いを起こして彼を惨殺してしまう。これに信長は激怒、出仕停止処分(実質的な浪人)を食らう。
もっともこの事件は捨阿弥の態度に問題があり、利家の宝であった佩刀の笄を盗んだり暴言を吐いていたりしていたというから、利家が一概に悪いともいえない。
桶狭間、森部の戦いでの戦功を認められ1561年帰参を果たす。このときに隻眼になったと言われている。その後各地を転戦するが意外にも功績はあまりない。
1569年、利家は前田家を継ぐが、前田家は兄の利久がすでに家督を継いでいた。しかしこれを強制的に排除、家督を継ぐ。これは信長の意向が強かったといわれているが利久の妻が荒子城に呪詛をかけてから退散するなど、穏やかではなかったようである。
その後も各地を転戦するが、1574年、柴田勝家の与力となり越前国の一向一揆平定に参加するが、このときの一向宗への弾圧は凄惨なものであった。後に彼が築城した小丸山城にはそのときの弾圧から生き残った人夫が書いたものと思われる「前田又左衛門どのが捕らえた一向宗千人ばかりをはりつけ、釜茹でに処した」という落書きにもその凄惨さがうかがえる。
1575年には佐々成政、不破光治とともに府中計10万石(佐々、不破と3等分)を与えられる。しかしこの後も各地に転戦しているため信長直参という関係は続いていたものと思われる。
1581年には能登七尾城主となり23万石を得ると港湾都市から離れた七尾城を廃城にして小丸山城を築城する。
1582年に本能寺で信長が死亡すると、かねてよりの経緯から勝家に属すが、足軽時代から交友のあった秀吉とも板ばさみとなる。同年、勝家の命で秀吉との和議の交渉に赴くが、このときに懐柔されたという説が強い。
翌年の賤ヶ岳の戦いでは5000の兵を率いるが合戦中に独断で離脱する。これにより羽柴と柴田の争いは秀吉の勝利が確定する。
その後府中に立てこもるが秀吉に降伏、特に咎はなくそのまま所領は安堵、さらに処刑された佐久間盛政の旧領を与えられる。小牧長久手では家康についた佐々成政と戦をし、これを撃退する。
後に成政は降伏、所領のほとんどを没収されるが、その旧領も利家に与えられた。
1586年には羽柴姓を秀吉から与えられ、羽柴筑前守となる。
その後も九州征伐、小田原征討と転戦、朝鮮出兵では名護屋に従軍した。
秀次が処刑された後は政治の中核にも参加し、五大老に列せられる。家康に次ぐ格式を持っていた。
秀吉の死の間際にその子秀頼を任されるが、家康の専横を止める前に1599年秀吉の後を追うように病没。家康に唯一楯突けるだけの格式を持った利家の死は豊臣方にとっては大打撃であった。これにより天下は家康に大きく傾くことになる。
死後、従一位(官職では太政大臣にあたり、正一位に次ぐ上から2番目の官位である)を賜る。
身の丈182センチと伝わり、当時の評価は律義者であった。しかし意外と失点が多いため、その器量を量るには注意が必要である。
なお、大河ドラマ「利家とまつ」では、おしどり夫婦になっているが、実際は側室多数であり(ただしこの時代、側室がいないことのほうがある意味異常であったし、秀吉にいたっては100人以上いたといわれている)、また虐殺なども行っていて、それらの点はドラマではかなり隠されている。
また、評価が大河ドラマのおかげで過剰に高い人物でもあり(実際には豊臣政権内で、同等の武将と比べるとはるかに小粒)、実像を見るには注意が必要である。