※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

足利家

足利義輝

レベル

70:7体

職業

配置

本陣総大将

戦闘開始時セリフ

#ref error : ファイルが見つかりません (kao_yoshiteru.JPG)

○○○○?
征夷大将軍・足利義輝じゃ。
我が鬼丸の切れ味を知れ!

○○○○よ。
そこまでして室町幕府を
倒したいか。何を目指す?

おかしいか?
征夷大将軍たるこの義輝が、
自ら剣を抜く時代なのだよ。

構成

名前 職業 レベル 初期付与 特殊技能
足利義輝 刀侍 70 獅子奮迅剛鬼突、n連撃・改
等持院住持 棍棒僧 65 結界 後光
三刀流精鋭 懐剣二刀忍者 65 奪命三五連
細川持隆 陰陽師 65 結界 呪縛・参
大館晴光 剣神主 65 反射 詠唱の韻・極子守歌
三淵藤英 鉄砲鍛冶屋 65 三段撃ち
鞍馬大山伏 槍薬師 65 再生

ドロップアイテム

特徴

  • 獅子奮迅は雷槌付きの4連撃。
  • 剛鬼突は鬼突モーションの攻撃。準備なし。
  • 開幕はウエイト1で1の行動が来る。
  • 1の連撃・固有技にはランダムで雷槌・氷槌などが付くことがある?

列伝

父は室町幕府第十二代将軍であった足利義晴。母は近衛尚通の娘として生まれる。幼名は菊童丸。妻は近衛稙家の娘。弟に後に十五代将軍となった足利義昭がいる。

父・義晴は当時、管領として幕政を牛耳っていた細川晴元と対立し、京都を追われていた。そのような最中の1546年に、義輝はわずか十一歳にして、父から将軍職を譲られることになる。このときの将軍就任式は、近江坂本で行なわれた。

将軍就任からまもなく、義晴は細川晴元と和睦して京都に戻った。しかし、今度は晴元の家臣である三好長慶が晴元を裏切って細川氏綱に味方し、畿内に一大政権を築き上げたのである。このため、足利義晴・義輝父子は細川晴元とともに京都を再び追われて近江に逃亡した。そして1550年、義輝の父・義晴は近江にて死去している。

1552年、義輝は三好長慶と和睦して京都に戻った。しかし翌年から細川晴元と協力して長慶と戦いを始める。一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢であったが、1558年に三好長慶の猛反攻を受けて京都から追われている。しかし、長慶も将軍殺しの汚名を着ることを嫌い、戦いに勝利した後、義輝に和睦を申し出ている。これにより義輝は京都に戻ることはできたが、長慶は幕府の御相判衆として幕政の実権を牛耳ることとなったので、義輝は傀儡将軍にすぎなかったのである。

義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指して、精力的な政治活動を行なっている。武田信玄上杉謙信、島津貴久と大友宗麟、毛利元就と尼子晴久などの抗争の調停を頻繁に行なって、諸大名に将軍の存在を知らしめたのである。さらに自分の名である『輝』の字を毛利輝元などの諸大名に与えたりもしている。このような経緯から、義輝は将軍として諸大名から認められるようになり、織田信長上杉謙信などは上洛して義輝と会見しているほどである。義輝の政治活動は、わずかとはいえ将軍権威を復活させたのである。

1564年、幕政を牛耳っていた長慶が病死した。このため義輝は、いよいよ幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。しかし、長慶の死後に幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永久秀と三好三人衆にとっては、そのような義輝は邪魔な存在である。このため、久秀と三人衆は義輝を排除して、義輝の従兄弟(父の兄弟)に当たる足利義栄をロボットとして擁立しようと企んだ。

1565年、久秀と三好三人衆、そして三好義継(長慶の養嗣子)はついにクーデターを起こした。義輝の居城である二条御所に軍勢を率いて襲撃したのである。義輝は上泉信綱に教えを受け、塚原卜伝に奥義の伝授を受けた剣豪将軍であったため、秘蔵の太刀をもって敵兵を多数、斬り殺したという。しかし衆寡敵せず、最後は三好勢によって殺害された。このとき、義輝の生母である慶寿院も殉死している。

法名:光源院融山道圓

辞世の句「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」

義輝は剣豪将軍と呼ばれた。義輝は塚原卜伝からの指導を受け、歴代征夷大将軍の中でも最も武術の優れた人物として評価されている。松永久秀らの二条御所襲撃の際も刀を数本畳にさして自ら戦ったと伝えられる。

そのためか、室町幕府の歴代将軍の中でも特に覇気が溢れ、武士らしい将軍と讃えられている。そして義輝の政治活動により、一時的とはいえ将軍権威が復活したことにおいてはその能力を評価できるかもしれない。しかし、暗殺されたことにより、将軍としての権威は地に堕ちることとなった。義輝の辞世の句にも、野心と無念が強くにじみ出ていることがうかがえる。

情報募集中

名前:
コメント: