村上義清
レベル
55:7体
職業
侍
戦闘開始時セリフ
○○○○よ。お主には
わかるまい。故郷を追われた
者の気持ちなど……。
○○○○、性懲りもなく
またこの義清の前に現れる
か! 故郷へ帰るがよい!
○○○○、故郷を逃れた
この義清をまだ追うのか!
前回のようにはいかぬぞ!
構成
名前 | 種類 | レベル | 初期付与 | 使用技 |
---|---|---|---|---|
村上義清 | 槍侍 | 55 | 武運長久、一所懸命、連撃・改〜五連撃・改、闘魂? | |
林泉寺高僧 | 僧 | 50 | 結界 | |
担猿中忍 | 刀忍者 | 50 | 手裏剣乱射、遁術・極 | |
岩井信能 | 陰陽師 | 50 | 結界 | |
越後強弓衆 | 弓神主 | 50 | 反射結界 | 詠唱の韻・極 |
北信濃鍛冶衆 | 鉄砲鍛冶屋 | 50 | 陽動 | |
島津忠直 | 薬師 | 50 | 再生 |
ドロップアイテム
特徴
- 1には挑発系が効きにくいが、呪縛系は効きやすい
- 挑発は3と5にやるのがいい。5は神主だが攻撃が妙に強い
- 3は遁術をけっこう使ってくる
- 1は闘魂もちのため、終盤はいったら速攻で1を倒すこと
列伝
左衛門尉、兵部大輔、信濃守、左馬頭。村上顕国の子。1501年の生まれとされるが諸説ある。
村上氏は各地にあるが、信濃村上氏は清和源氏を源流とするという。源顕清が信濃国更級郡村上郷に配流されたのち、地名より名乗ったとされている。
これは資料的な裏づけがいまひとつ乏しいが、別説で有力なものははいまのところない。
なお、資料によって家系図に差異が顕著であり、どれが本当かは不明であるが、平安末よりの名跡である。
室町時代には守護である小笠原氏の力が強まるとそれを嫌い幕府に対抗したこともある。
戦国初期に埴科郡坂城郷に移り戦国に至る
義清が父からいつ家督を継いだのかはわかっていない。これは父顕国が実像不明の人であり、資料がないために業績不明であるからである。祖父、父の代に村上氏は躍進したと考えられているのだが、どういった経緯で勢力が拡大されたのかは現在も謎である。
1541年、武田信虎?とともに信濃に割拠する海野、根津、真田、矢沢といった国人を排除して勢力を拡大する。
年数を見てもわかるようにすでに彼は壮年期に入っている年である。つまり父についで彼の前半生も業績が不明である。勢力拡大を行っていたことまではわかっているのだが・・・詳細は謎である。このころまでに北信濃四郡を手中としている。
同年、武田信虎がクーデターによって実子である武田信玄(実際には1559年までは信玄とは名乗っておらず晴信であるが、混乱を避けるためそれ以前でも信玄とする)に追放される。信玄は信濃出兵を行う構えを見せるため関係は急速に悪化していった。
義清はすぐに、同じく信濃の名跡である小笠原、諏訪氏と共同で先制攻撃をかける。しかしこれは武田勢に防がれた。以後武田家の圧力は強くなっていき、1542年に諏訪氏が滅亡すると小笠原氏を挟んで信玄と敵対する。
1548年、信玄は信濃に出兵、これに対して義清も兵を率いて信濃上田原で激突する。世に言う上田原合戦である。義清はこれに大勝、板垣信形、甘利虎泰といった信玄方の重臣を討ち取り、信玄本人も負傷したという。義清はこれに乗じて小笠原、仁科、藤沢氏らと結び1542年にとられた信濃諏訪に侵攻するが、これは信玄によって退けられる。
1550年、信玄は再度信濃に出兵、義清の軍勢がつめる戸石城(砥石城)に攻め寄った。世に言う戸石城合戦、通称「戸石崩れ」である。この戦は八日間続き、武田方は死者720名(一説には千名以上)、横田高松、渡辺雲州といった家臣を討ち取られ、村上側の死者は200名弱であるという大勝利であった。
しかし、翌年、1日にして戸石城は陥落してしまう。原因は義清の同盟相手であった高井郡の高梨政頼や埴科郡に勢力を持っていた寺尾の一党が信玄方の知将である真田幸隆に取り込まれたこと、戸石城の足軽大将であった矢沢頼綱(かれは真田幸隆の弟である。今作では真田幸隆徒党の6人目として登場している)が手引きをしたためであるとされている。刀を交えることもなく戸石城は陥落、義清は本拠である葛尾城にあったが何もできなかった。
1552年には常田の戦いで再度勝利するも、衰え始めた士気と影響力が回復することはなく、1553年には村上方の諸将が次々に離反、降伏したため葛尾城は大混乱、義清は一度葛尾城から脱出して再度盛り返し、城はなんとか維持し、信玄は一旦甲斐に引き上げた。
しかしその2ヵ月後に信玄は再度出兵、これに対して交戦能力を完全に喪失していた義清は越後に逃亡することとなる。これにより信濃は北信濃の一部を除いて武田の勢力範囲に置かれる。
これにより北信濃の覇権争いは武田と、武田勢との緩衝地帯を失った長尾勢(上杉家)との一騎打ちとなり、1561年の川中島へと通じていくのである。義清はこの川中島にも出兵している。しかし結局信濃を回復することはできなかった
義清は上杉家の庇護のもと根知城五万石を知行し、1573年同地で死去した。彼の後は、彼の甥(国清とも義房ともいう)と娘の子である国清があとを継いでいる。なお、彼は義清の直系の子であるとも言われるが、年齢的に考えると前者のほうが自然ではあるが、なにぶん系譜がほとんど無いため不明である。
国清は上杉家において山浦の名跡を与えられ一門格の待遇を与えられ、のちに景の字も拝領してるが1598年の資料を最後に完全に行方不明となり、諸説あるがその後の足跡は不明である。
「武田には戦で勝ちながら、謀略に負けた」これは戸石城陥落のさいに義清がもらしたとされる言葉である。彼との一連の戦いは「戦で負けても最後は勝つ」という戦略的勝利の達人である武田信玄の特徴を端的にあらわしているといえるだろう。