※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

北条家

太田康資 (オオタ ヤススケ)

レベル

50-7

合戦配置

敵陣中翼中備

構成

名前 種類 レベル 初期付与 使用技
太田康資 棍棒侍 50 一所懸命、連撃改系、闘魂術
伊豆鍛冶衆 鍛冶 45
風魔中忍 忍者 45
武蔵野薬採り 薬師 45
鶴ヶ岡神官 神主 45
伊豆衆闘兵 陰陽 45
修善寺僧 僧侶 45

特徴詳細

戦闘台詞

ドロップアイテム

列伝

新六郎。大田資高の子。1531年の生まれとされる。なお、康は北条氏康からの拝字。

太田氏は源頼政の後裔である資国が丹波国太田郷に寄り太田を名乗ったとする説、同じく源三位の後裔である資国の子が武蔵太田荘により太田を名乗ったとする説などがある。
武蔵七党の猪俣党に属する横山氏の出自であるともされる。
しかし、太田氏については江戸期に大名家となった太田氏が(他の太田氏の協力を得て)改竄を行った疑いが非常に強く(実際には行われたのはほぼ疑いはない)、系図、系譜の信憑性が薄い(相模にも太田氏がいたというが不明である)。なお、大名となった家系は江戸太田氏と呼ばれる家系で、康資の子孫であるとされるが、怪しいとする見方がそれなりに強い(後述する)。

太田氏で有名なのは太田道灌であるが、康資は彼の実子から分かれた子孫(ひ孫)であるとされ、岩槻太田氏は道灌の養子となった人物の子であるといわれているが、後者を嫡流とする説、岩槻太田氏も実子とする系図もあり謎であるが、前述のように江戸期に両方の流れが協力して改竄を行っているため、現在では闇の中である。なお、康資が直系の子孫であるのはほぼ間違いない。

道灌が主家の扇谷上杉に殺されるとその子である資康は扇谷上杉氏を見限り、その敵となった山内上杉氏に仕えたというのだが・・・子の資高の代までにいつの間にか扇谷の家臣にもどっており、その動向はいまひとつ不明である。位としては道灌の代と同じく、家老、江戸城代にもどっている。
その後も家老を務めていたが父資高の代に、伊豆より勢力を伸ばしてきた北条氏に、上杉朝興の居城であった江戸城ごと寝返った。一説には朝興に不満があったためという。1524年のことである。この後資高は江戸城代となり、以後北条家に仕えた。

1547年頃に父が死亡すると家督を継ぐ。なお、彼は遠山綱景の娘を娶っているが、彼女は一旦北条氏康に養女として移ったのちに彼に嫁いだ。 つまり彼女を娶ったことにより康資は、実質的には北条家一門に継ぐ格式を与えられたと見ても良い。
なお、父の代から引き継いで江戸城代に列せられていた。余談であるが江戸城は重要地であったため城代が3人いた。普通はおおよそ1人の城主と1人の城代からなるが、江戸城は、本丸に富永氏(富永直勝)、二の丸に遠山家(遠山綱景)がより、康資は三の丸によっていた

彼は武勇を誇っていたとされる。
しかし1563年、それに対する恩賞が少ないという理由から北条氏康に疑念を抱き、同族の太田資正(彼は岩槻太田氏、つまり道灌の代に分かれた家系の直系である。1560年以降北条家と敵対していた)を通じて長尾上杉家に寝返りを画策する。
この経歴には諸説ある。道灌の築いた江戸城の城主になれなかったため、とする資料もある。また、里見氏と太田資正が寝返りを進めたという説もあるが、いずれも北条方の資料である。
しかし、これは結局失敗したため、康資は資正の元に逃げることになる。
上杉謙信は自身側についている数少ない武蔵国人である両名の救出を、安房、上総、下総の領主である里見氏に要請、里見家当主であった里見義堯はこれに応じ、嫡男義弘を総大将とする大軍を派遣、義弘は国府台城に入る。
1564年、両勢力は激突。後に言う第2次国府台合戦である。
しかし里見は北条方の奇襲を受けて壊滅、里見義弘は辛くも生き延びるが、その後怒涛のごとく領内に侵入してきた北条家のとの争いで、最終的には上総を奪われるという大敗北であった。

康資はそのまま里見氏の庇護を頼り安房に逃亡(一説には資正とともに佐竹氏に逃げたとも言われ、これ以降の彼の経歴は曖昧である)。
その後も北条と戦い続けるも1581年死去したといわれる。一説には里見氏の家督争いのさいに起こった正木憲時の反乱に巻き込まれ、正木憲時に加担したということでともに小田喜城で自害したとも言う。
しかし、実際のところは、この年に本当に死んだのかすら曖昧であり、本当に里見に逃げたのかといわれると、怪しいという資料もある(こちらの説では佐竹に逃げたという)。これは、後述する英勝院とかかわっている。
どちらにしても、国府台以降の彼の足跡はいまひとつ不明である。

徳川家康が寵愛した側室である英勝院は、康資の娘であるといわれるが定かではない。一説には1591年に佐竹氏に追われて逃げた江戸重通の娘が、康資の養女となったという説がある(この説だと、先ほどの1581年没説はおかしいということになるし、そもそも佐竹に逃げていないとおかしい)。しかし、遠山綱景の娘、つまり康資の妻が彼女を娘として育てていたようではある。
そして、江戸時代に5万石を領した太田氏は、この英勝院の親類であるという。
つまり、江戸時代に改竄を行った太田資宗が、自身の父である太田重正を康資の子として、家系をくっつけたのではないかというのである(佐竹氏庇護説も、この際に捏造された可能性がある)。もっとも、これについては裏づけがない。太田重正は実際に太田康資の子なのかもしれない。
実は太田資宗は、太田重正の子とされているのだが、英勝院の養子となっている経歴がある。このあたりがどうも怪しいのかもしれないがどちらにしても改竄時に証拠は残していないため俗説どまりであろう。

太田氏は名跡であり、江戸時代にも家系が残っていながら系譜、経歴が曖昧である(岩槻太田氏にいたっては、江戸時代に改竄された際に多くの記録が消去されてしまっているようである)。康資の経歴も、大名家の直系先祖であるにもかかわらず(改竄のあおりを受けたのであろうが)謎のままである。

余談であるが、北条家に属しているPCがある一定以上の身分で彼に話しかけると、娘のお八が、男勝りであり、利発で周りを言いくるめて困る、という話が聞ける。お八は「於八」とかかり、英勝院の幼名である。実際に英勝院は利発な女性であったと伝わっている。

その他情報

名前:
コメント: