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北条家

内藤綱秀 (ナイトウ ツナヒデ)

レベル

50-7

職業

構成

名前 職業 レベル 初期付与 使用技
内藤綱秀 刀侍 50
伊豆鍛冶衆 鍛冶 45
風魔中忍 忍者 45
武蔵野薬採り 薬師 45
鶴ヶ岡神官 神主 45
伊豆衆闘兵 陰陽 45
修善寺僧 僧侶 45

備考

列伝

内藤康行の子と思われるも詳細は不明。孫四郎、左近将監、大和守。生年も不明。

内藤氏は藤原秀郷の子孫と称するものの後裔とされているも出自は不明である。「城山町史」では、1183年に京都の治安維持にあたった御家人の一人である内藤四郎の家人内藤権頭親家であるとしているも、実際に鵜呑みにするのは困難な話であろうと思う。伊勢宗瑞(北条早雲)と同じ備中荏原荘とも伝わる。
甲斐と相模の国境にある要衝、津久井に本拠を構えていた。相模中郡岡田や酒井のほか相模東郡河尻などに約1002貫を知行していた。
北条氏に仕えた時期はいまひとつ不明である。
朝行─康行─綱秀─直行と続く一族なのであるが、朝行の朝の字は山内上杉氏から一字拝領したものである。また、津久井の近くの田代というところにも秀勝─秀行─定行と続く内藤氏があり。内藤綱秀はこちらから津久井内藤氏にはいったという説もある。

内藤氏は津久井衆筆頭としてこれを率いていた。しかし津久井衆はすべてが北条氏に仕えていたわけではなく、半分程度は武田氏に属していたようで、そのため信玄は小田原攻めの帰路にこの地方を通ったものと思われる。このときにも内藤氏は武田と一戦を交え、甲陽軍鑑によるとこのとき当主が討ち取られたとされるが真偽は不明である

綱秀がいつ津久井城主になり、家督を継いだのかは不明である。
以下が綱秀と思われる内藤の足跡である。 1590年の小田原征討では津久井衆を率いて豊臣方を野戦を行ったとされ、その後に津久井城修理の普請を行った後に、周囲の村に対して徴兵を実施したようである。しかし津久井城は落城、小田原に籠もるも落城し、その後の消息は不明となっている。
しかしこれには異説もあり、このとき津久井城には内藤氏はいなかったといわれ、はじめから小田原に籠もっていたとも言われている。
また、松田氏(松田憲秀の家。綱秀はこの家から妻を娶っていたといわれる)とともに豊臣方に内通する謀議にも加わっていたとも言われるが不明である。

1002貫を知行していた重臣であったものの、その動向には不明な点が多く、また資料が多く残っているにもかかわらず実像がわかりにくい一族である。北条滅亡時における資料の散逸、混乱が原因であろう。

その他情報

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