和田惟政
レベル
50:7体
職業
忍者
配置
右翼中備大将
戦闘開始時セリフ
私がお相手いたしましょう。
甲賀の住人・和田惟政!
いざ参りますぞ!
○○○○?
貴殿の御名前は忘れぬよう
覚えておきます。
構成
名前 | 職業 | レベル | 初期付与 | 特殊技能 |
---|---|---|---|---|
和田惟政 | 懐剣忍者 | 50 | ▲ | 蘇生・壱、伴天連の奇跡、奪命n連、反撃回避、武運長久 |
朽木谷の坊主 | 僧 | 45 | 結界 | 蘇生・壱 |
和田惟長 | 棍棒侍 | 45 | 呼び出し、蘇生の秘薬 | |
京陰陽寮碩学 | 陰陽師 | 45 | ||
北野弓兵 | 弓神主 | 45 | 詠唱の韻・極、呼び出し | |
山城国人衆 | 棍棒鍛冶屋 | 45 | ||
曲直瀬助手 | 薬師 | 45 | 蘇生・壱 |
ドロップアイテム
特徴
- 伴天連の奇跡は準備なしの活力
- 最速で1の奪命○連がくるパターンが多いので鍛冶は警護術必須。
列伝
弾正忠、伊賀守、紀伊守。和田宗立(惟助)の子という説と、和田秀盛の子であるという説がある。1532年生まれとされるが、1530年とするもの、32年以降であるとする説もあるが、1532年が最有力。
和田惟政の出自はいくつか説があり、清和源氏の源満政の子孫が近江国甲賀郡和田村に在住したさいに名乗ったとされるものと(こちらは甲賀二十一家に数えられる)、近江源氏つまり六角の支流であるとする説である。後者は現在も旧家として子孫が存在しており、惟政はこちら家から出た支流であるとしている。
ただし、どちらが本当であるかは不明である。しかし、惟の字を代々継いでいるのは清和源氏の和田氏であり、近江源氏の和田氏には惟政以前にこの字をつけている人は見受けられない。そのため前者のほうが説としては有力と考えられる。
最初六角に仕えていたが、その縁で足利義輝の御供衆となったとされているが、実際には義昭に仕える以前の記録がなくよくわかっていない。
1565年に義輝が松永久秀や三好三人衆によって暗殺されると、彼の弟であり、興福寺一乗院にて出家(実際には中央からの追放であった)していた足利義昭(義秋)にも危険が及んだが、これは細川藤孝らの活躍によって脱出、その後に惟政の屋敷にかくまわれた。
このとき惟政は自身の領地にいたようであるが、なぜ義輝の下を離れて戻っていたかはよくわかっていない。先述のように、彼の記録はこのあたりからしか資料上では伝わっていない。
その後六角の当主である六角義賢の助けもあり、義昭は少林寺内に立てられた館に移ったが、六角内部にて義賢の弟である義弼が三好に内通したためこの地を離れ、若狭の武田義統を頼った後に越前の大国朝倉義景の庇護を受けた。
この一連の放浪に惟政は付き従っていた。
彼や細川は、最初朝倉義景に上洛を促していた。しかし義景はこれになかなか応じず、その間に中央では14代足利義栄が将軍についてしまう。そのため彼らは動かない朝倉を見限り、そのころ勢力を伸ばし、美濃と尾張2国の大領となっていた織田信長に明智光秀を遣わし上洛を要請することになり、信長はこれに即座に応じる。
これは朝倉にとって致命的な失点であった。義景は天下人になる人生最大の機会を自ら手放してしまったのである。これにより天下は織田家に大きく流れることになり、朝倉は凋落へと向かうのである。
信長が上洛要請に応じた際、まず岐阜に来るようにと返し、それに義昭は応じた。このとき惟政は付き従い、おそらくこれが信長との初見になったと考えられる。
1568年に信長は上洛、足利義昭は第15代将軍となる。惟政はこの功績によって、上洛時に平定した摂津の半国を与えられ、池田勝正や伊丹親興とともに摂津を治める。このとき芥川城主、ついで高槻城主となっている。
また、同時に京都所司代にも任じられて、洛中洛外の政務を任された。
このとき彼は「都及び摂津両国の総督」とされていた。まさに人生での絶頂期である。信長と義昭のパイプとしても勤め、中央政権の中核であった。
なお、このころにキリスト教に感銘を受け、自身もキリスト教徒となったほか、ルイス・フロイスを信長に引き合わせている。
しかし1571年、信長に反旗を翻した三好や松永と結んだ池田氏が和田を攻撃する。
和田は白井河原で矛を交えるが敗北。あっさり討ち死にしてしまう(ただしこのとき討ち死にしたかは諸説あり、処刑されたともいうし、その後も生きていたというが、その後は資料がないため死亡したのはほぼ確実である。)。
実は彼は、一時期信長の勘気をこうむり、出家に追いやられている。こういったことからも上洛後の信長と彼の関係は必ずしも良好ではなく、義昭と信長に軋轢が生じるとともに彼も信長から疎まれていったようである。
なお、彼の最期を1573年としたり、足利側に着いたために信長の命を受けた荒木村重に討たれたとする書き物があるが、これは間違いである。彼は死亡まで明らかに信長側として動いていたし、1571年に起きた三好との抗争で死亡したのである。1573年におきた足利、織田間での抗争とは関係がない。また、討ち取ったのは池田氏とその家臣荒木であり、三好と直接矛を交えて死亡したわけではない。
彼は1573年にはすでに歴史から消えている(1573年の摂津の動向は池田勝正や荒木村重の項を参考されたし)。
先述したように彼は信長からあまりよく思われておらず、疎まれていたのは間違いない。また、彼の領した摂津は、三好家の畿内側での橋頭堡にもなっているうえ、国人の勢力が強いという複雑な土地である。彼の失敗は、いまひとつ摂津の国情や、中央政権での動きを読みきれなかったことにあると考えられる。
彼は近江の出自である。かの地は、中部について言えば六角と浅井の対立軸はあったものの、甲賀については六角の領地の奥深くにあり、おおむね安定している土地であった(将軍家が逃げ込んでいることからもそのあたりが安定していた土地であることは伺える)。そういった土地で育った彼が混沌とした国である摂津の総督となったのが、そもそもの間違いの原因だったのかもしれない。