北条氏繁
レベル
50:7体
職業
侍
合戦陣配置
北条家・中翼後詰副将
戦闘開始時台詞
構成
名前 | 職種 | レベル | 初期付与 | 使用技 |
北条氏繁 | 二刀侍 | 50 | 蘇生・壱 | |
早雲寺高僧 | 僧 | 45 | ||
乱波中忍 | 忍者 | 45 | ||
伊豆衆精鋭 | 陰陽 | 45 | ||
箱根山神官 | 神主 | 45 | ||
相模鍛冶 | 鉄砲鍛 | 45 | ||
箱根山山伏 | 薬師 | 45 |
特徴・詳細
部隊アイテム
ドロップアイテム
武将列伝
北条綱成の第一子。善九郎。左衛門佐、常陸守。康成。1536年生まれ。
元服時は北条氏康から一字拝し、康成と名乗る。父と同様に武勇に優れていたとされ、1551年の上野平井城攻めでは尊勝陀羅尼の母衣着を着、鉄棒をふるってなぎ倒したと伝わる。羽生城攻略戦、第二次国府台合戦、関宿城攻略戦等数多くの戦に参戦、戦功を挙げる。
1562年、上杉家が小田原に進攻すると、その抑えとして有吉城に入城する。また、父が城主を務める玉縄城の城代にも任ぜられている。また同時に鎌倉一帯の守備の責任者ともなっている。のちに玉縄城主と飯沼城主を兼任する。
1567年に武藏岩槻城主である太田氏資が死亡、その遺領の差配を担当する。
1569年の武田氏進攻の折は玉縄城に籠城、これを守り抜く
1571年に氏康が没すると名を氏繁と改め、新たなる主君氏政の信頼も厚く、さらに重役をまかされることになる。
1577年には対佐竹への備えとその領地である常陸への進攻準備も兼ねて、逆井城(飯沼城)に入城、同城の大規模な修築工事を行う。
このように氏康、氏政からの信頼も厚く、さまざまな重役をまかされていた氏繁であったが、城主を二つ兼任してさらに鎌倉守備をまかされ、その後常陸進攻の準備に追われるなど、非常に多忙であったのであろう。
そのためか1578年に病に倒れそのまま同年6月に死亡。父に先立つ43歳もの若さであった。
なお、その後の家督(玉縄北条氏、綱成の家)は彼の子・氏勝にわたったとされるが、近年その兄と思われる北条氏舜の存在が現れ、実際には不明となっている。
彼は教養も兼ね備えていたとされ、特に絵は巧みであり、松の古木に止まる鷹の絵画が現存している。文武を兼ね備えた彼の早世は北条家にとっては大きな痛手であったことは想像に難くない。