「高坂昌信」(2007/06/13 (水) 07:30:53) の最新版変更点
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[[武田家]]
*&ruby(コウサカ マサノブ){高坂昌信}; [#h4432e99]
**レベル [#eec6a361]
60:7体
**職業 [#p4de53ba]
陰陽師
**戦闘開始時セリフ [#u3147632]
○○○○殿の名前は、~
しかと覚えておきましょう。~
では、お手並み拝見!
○○○○殿ですね!~
いいでしょう。何度でも~
お相手をいたしましょう!
・東西戦専用セリフ
西軍四天王として、~
務めを果たしましょう。~
斬り捨てます!
**構成 [#x658012d]
|~名前|~職業|~レベル|~初期付与|~特殊技能|
|CENTER:高坂昌信|CENTER:陰陽師|CENTER:60|&color(blue){▲};&color(silver){▲};反射結界|CENTER:[[甲州軍学・林]]、[[術法剣]]、[[疾雷]]|
|CENTER:春日源五郎|CENTER:薙刀侍|CENTER:55||CENTER:[[一所懸命]]|
|CENTER:甲州金山師|CENTER:鉄砲鍛冶屋|CENTER:55||CENTER:[[陽動]]、[[三段撃ち]]|
|CENTER:高坂昌澄|CENTER:僧|CENTER:55|結界|CENTER:[[後光]]、[[完全回復]]|
|CENTER:歩き巫女|CENTER:弓巫女|CENTER:55|反射結界|CENTER:[[神雷]]、[[詠唱の韻・極]]|
|CENTER:甲陽流忍者|CENTER:忍者|CENTER:55||CENTER:[[五連撃]]|
|CENTER:富士講講中|CENTER:薬師|CENTER:55|反射結界|CENTER:|
**ドロップアイテム [#v896f9b5]
-[[甲陽軍鑑]]
**特徴 [#x9ebb80a]
2の一所と3の陽動は非常に吊られやすいのでご注意を
**列伝 [#s5c887a4]
源助、源五郎。弾正忠。確実な資料では名は虎綱という。昌宣、晴昌、晴久。春日大隈守の子。1527年の生まれとされる~
大百姓の出身であり、16歳のときに信玄に見出されて奥近習となる。~
使番を経た後に1552年には侍大将に取り立てられ、1554年には小諸城代となり、さらに1556年には海津城代となる。このときの禄は9000貫であり、武田家臣では最大の知行量である。~
このころに信濃の名跡である高坂家を継ぐが、すぐに春日姓に戻しており、高坂を名乗っていた時期は非常に短い。~
わずか29歳で武田家で最高の知行量を持ち、上杉勢との抗争の最前線である海津城代に取り立てられるという彼の厚遇は信玄の寵愛だけではないことは想像に難くない。
1561年の第4次川中島合戦では上杉勢を追撃、大きな戦果をあげたとされる。~
彼の戦は、「逃げ弾正」などと評されるほど思慮深く、ゴリ押しを好まず情報を重要視した戦術を好んだ。~
甲陽軍鑑によると長篠の戦で武田勢が大敗を喫したときは、居城の海津城からいち早く[[武田勝頼]]を出迎え、あらかじめ用意した衣服を着けさせ、凱旋軍を装い領民の不安を抑えたとされている。その後1578年に没。
彼は甲陽軍鑑の表向きの作者とされている。しかし、甲陽軍鑑は小幡景憲という人物が確実に編纂、または執筆に係わっており、昌信はまったく関与していないという説も存在する。甲陽軍鑑で表向きの作者とされている高坂昌信は、後にエピソードが加えられている可能性が高く、実像を見るのは困難かつ慎重にならなければならない。~
甲陽軍鑑自体の歴史的資料としての価値は「創作の意図が強い」という理由からもともと高くないのだが、昌信に関しては特に注意しなくてはならない。これは昌信が甲陽軍鑑の「表向きの作者」として描かれているからに他ならない。~
甲陽軍鑑自体は少なくとも信玄時代の何らかの資料を下敷きにしているようなのであるが、その内容は明らかな間違い、そしてほかの資料がなければ事実と認定されないものも多分に含んでおり、すべての内容について、逐一検討が必要である(詳しくは[[甲陽軍鑑]]にて)。
ネット上では昌信を「甲陽軍鑑」の著者、作者として紹介している文が多分に見られるが、実際に彼自身が甲陽軍鑑を書いた可能性は多分に低く(実際には原著者である可能性も低い)、この紹介は明らかな間違いとしなければならないだろう。
**備考 [#xcf121a1]
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