「佐々成政」(2007/06/13 (水) 07:17:52) の最新版変更点
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[[織田家]]
*&ruby(サッサナリマサ){佐々成政}; [#j9c4adbc]
**レベル [#z5ce8534]
50:7体
**職業[#jiee6h92]
侍
**戦闘開始時セリフ[#emaq2019]
織田家黒母衣衆参上!~
この佐々成政の銃撃に~
耐えることができるか?
はっはっは! 誰かと思えば~
わしの銃に射抜かれた~
○○○○ではないか!
待て!○○○○!~
今日こそは我が鉄砲の~
餌食にしてくれるわ!
**構成 [#r24a4c27]
|>|>|CENTER:|||c
|~名前|~種類|~レベル|~初期付与|~使用技|
|佐々成政|鉄砲侍|50|&color(green){▲};&color(red){▲};|[[一所懸命]]、n段撃ち、[[佐々流狙撃術]]、[[つるべ撃ち]]、[[蘇生・壱]]|
|織田工兵|刀鍛冶屋|45||[[陽動]]、[[蘇生・壱]]|
|饗談中忍|懐剣ニ刀忍者|45|||
|尾張薬種商|槍薬師|45||[[完全治療]]、[[蘇生・壱]]|
|国府宮神官|懐剣神主|45|||
|尾張陰陽師|陰陽師|45|||
|正徳寺僧兵|僧|45|||
**特徴 [#va850e23]
-[[加藤嘉明]]、[[森長可]]、[[木下秀長]]を撃破することにより弱体
-撃破すると[[前田慶次]]を弱体
-弱体していると回復1でも十分倒せる
-開幕に佐々を逆転すると楽になる
**ドロップアイテム [#ka60f669]
-[[三連銃の設計図]]
-[[佐々黒母衣衆兜]]
**列伝 [#h2ff3f32]
内蔵助、陸奥守、侍従。佐々成宗(盛政とも伝わる)の第5子とされる。1539年生。
佐々氏は佐々木氏の末流が上総国佐々庄に移り住み、佐々と名乗ったとされている。佐々木氏の源流は宇多源氏とされている。菅原氏の出で近江国余呉庄から出でたとする説もあるが、こちらはあまり有力ではない。成政の代には尾張国春日井郡比良村の在地領主となっていたが、いつごろ移ってきたのかは不明である。
兄である佐々政次が桶狭間で戦死すると、その後をついで馬廻衆、 黒母衣衆に列せられ、その後各地を転戦することとなる。~
1567年、黒母衣衆筆頭となる。その後も各地を転戦し、まさに東奔西走する。長篠の戦では鉄砲隊を率いて武田勢を壊滅に追い込む。~
1575年、[[柴田勝家]]与力として[[前田利家>前田犬千代]]、不破彦三とともに10万石を賜る。その後も各地を転戦するが、1579年ごろからは主に上杉勢との戦に従事する。1581年には越中1国を与えられて富山城に寄る。~
1583年、信長が本能寺で死亡すると、与力であったことなどから柴田勝家に味方する。しかし賤ヶ岳合戦には上杉勢を抑えるために動けず、秀吉が勝家を滅ぼした後も徹底抗戦の構えを見せるも越中1国を条件に降伏する。~
しかし1584年の小牧長久手戦では織田信雄を支持する[[徳川家康]]につき、前田利家と戦端を開くも、上杉との2方面戦を強いられ苦戦する。このころ家康と秀吉の戦いは、小牧長久手本戦では家康が大勝するものの、多数の反秀吉派が日和見を決めたこともあり膠着、家康は単独講和を行う構えを見せる。~
徹底抗戦を訴える成政は家康への直談判を行うことを決意する。しかし彼の居する越前は東を上杉、西を前田、そして南の信濃は秀吉の勢力圏であり、遠江の家康へ出会うことは不可能に近かった。~
成政は厳冬期の立山連峰を超えるという壮挙を行う。後に言う「さらさら越え」である。これを成し遂げ家康と会談する~
しかし結局家康は講和、成政は富山にむなしく帰還することとなる。翌年秀吉は自ら10万の大軍を率い富山城を包囲、織田信雄の仲介により降伏、かろうじて越中新川郡の一郡を残されるものの、自身は家族とともに大坂に居住させられ、御伽衆として秀吉に仕えることになる。
後九州征伐で功を上げ肥後1国を任されるが、検地を早急に行おうとするなど、国人の不満をため1588年に国人一揆をおこしてしまう。この責を問われて切腹させられる。
後世では秀吉嫌いとされ、猪武者という具合に描かれる場合が多いが、実際には政務もそつなくこなす人物であり、領地であった越中には彼の行った治水の後が今でも残っている。~
しかし、さらさら越えなどの無茶、国人一揆の勃発など、性急すぎる一面が目立つほか、秀吉にくらべるとどうしても見劣りする。生まれてより織田家一筋でいたこともあったのであろうか、世渡り下手と頑ななまでの織田家への忠誠と生来の性急さが、彼の失敗の原因だったのかもしれない。
**その他情報 [#yf958d36]
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