「浅井長政」(2007/06/13 (水) 05:06:52) の最新版変更点
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CENTER:【[[浅井家]]】
*浅井長政 [#ube7e3e6]
あざい ながまさ
**レベル [#f276645c]
70:7体
**職業 [#ic6881a9]
侍
**合戦陣配置 [#f75886d0]
[[浅井家]]・本陣総大将
**戦闘開始時台詞 [#we6584cd]
私には見えるのだ。
戦乱を治め、天下に号令する
私の姿が……邪魔をするな!
私には譲れぬものがある。
守らねばならぬものが……。
負けるわけにはいかぬのだ!
○○○○よ、
私もお主のように、政抜きで
合戦を楽しみたいものよ。
**構成 [#k28ceddc]
|>|>|CENTER:|||c
|BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){名前}|BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){職種}|BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){レベル}|BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){初期付与}|BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){使用技}|
|BGCOLOR(#e6e6fa):浅井長政|BGCOLOR(#e6e6fa):一刀侍|BGCOLOR(#e6e6fa):70|BGCOLOR(#e6e6fa):&color(orange){▲};&color(blue){▲};|BGCOLOR(#e6e6fa):[[三>三連撃・改]][[〜>四連撃・改]][[五連撃・改]]、[[武運長久]]、[[活殺自在]]、[[大音声]]、[[一所懸命]]、[[看破]]、[[蘇生・壱]]、守護術、反撃術|
|福田寺住職|金棒僧|65|反射結界|[[紅蓮・参]]〜[[四>紅蓮・四]]、[[凍気・参]]〜[[四>凍気・四]]、[[気合撃・壱]][[〜>気合撃・弐]][[参>気合撃・参]]、[[後光]]、[[霧散]]、[[蘇生・壱]]|
|BGCOLOR(#e6e6fa):甲賀精鋭|BGCOLOR(#e6e6fa):懐剣二刀忍|BGCOLOR(#e6e6fa):65|BGCOLOR(#e6e6fa):|BGCOLOR(#e6e6fa):各属性遁術・極、[[瞬殺閃]]、[[手裏剣乱射]]、[[奪命三>奪命三連]][[〜>奪命四連]][[五連>奪命五連]]、[[蘇生・壱]]|
|&ruby(あざいいより){浅井井頼};|杖陰陽|65|結界|各属性術・四、[[呪縛・参]]、[[低速化・参]]、[[暗黒・参]]、[[気合呪霧・壱]]、[[蘇生・壱]]|
|BGCOLOR(#e6e6fa):&ruby(あざいすけちか){浅井亮親};|BGCOLOR(#e6e6fa):懐剣神主|BGCOLOR(#e6e6fa):65|BGCOLOR(#e6e6fa):反射結界|BGCOLOR(#e6e6fa):[[神風]]、[[神雷]]、[[嵐撃・参]]、[[詠唱の韻・極]]、[[気合の韻・参]]、[[攻撃の韻・参]]、[[攻撃付与・参]]、[[蘇生・壱]]|
|国友精兵|連銃鍛|65||[[三段撃ち]]、[[狙撃]]、[[陽動]]、[[蘇生・壱]]、守護術|
|BGCOLOR(#e6e6fa):叡山大山伏|BGCOLOR(#e6e6fa):杖薬師|BGCOLOR(#e6e6fa):65|BGCOLOR(#e6e6fa):再生|BGCOLOR(#e6e6fa):[[防御呪詛・参]]、[[蘇生・壱]]|
**特徴・詳細 [#p8e5ec93]
-[[浅井久政]]撃破で5体に弱体化
**部隊アイテム [#n00f9504]
-[[相州貞宗]]
**ドロップアイテム [#x85e9a10]
-[[浅井一文字]]
**武将列伝 [#s763d2ea]
[[浅井家]]の発祥は、正親町三条内大臣実雅の男・公綱(あるいは政氏、氏政)が、嘉吉元年(1441)、罪を得て[[近江]]へ流され、浅井郡丁野(現・湖北町)に居住。公綱が許されて[[京>京都]]へ戻ったのちも、その子、新左衛門重政(公雅)が丁野に残り、地名、浅井を家号とし、守護職京極家に仕えた、とされる。
京極氏は鎌倉以来の佐々木氏の分流であり、[[近江]]では名門であった。しかし[[浅井氏>浅井家]]は、数代を経るうち、永正13年(1516)、浅井亮政(長政の祖父)のころ、下剋上の中で台頭し、主家京極氏を圧迫して、[[北近江>近江]]の実権を握るに至った。亮政は[[小谷城>小谷]]を築いたが、その城山は、元々[[琵琶湖>近江]]北岸に展開する平にそびえていたため、城郭の規模はきわめて雄大、難攻不落の要塞となった。
長政は天文14年(1545)、[[小谷城>小谷]]に生まれる。母は井口氏(阿古…[[井口経親]]の妹)、幼名は猿夜叉(さるやしゃ)、のち新九郎と称し、永禄2年(1559)、15歳で元服。備前守と改めた。弟に政元がいる。
長政の父・[[久政>浅井久政]]は、長政に、六角氏の老臣、平井加賀守定武の娘を室に迎えるが、これによって[[六角氏>六角一族の屋敷]]の家来になったことを認めた体となり、長政をはじめ、家来達からは反発の声が強かった。[[六角氏>六角一族の屋敷]]もまた、京極氏とおなじ佐々木氏の分流であるが、[[久政>浅井久政]]はこれと戦い、終始押されぎみだった。
永禄3年(1560)3月、長政16歳で初陣(野良田合戦)。攻め寄せてきた[[六角義賢>六角承禎]]を、長政が撃退。家臣たちはこれを見て喜び、[[久政>浅井久政]]が鷹狩りに出かけた留守に長政を[[小谷城>小谷]]へ迎え、[[久政>浅井久政]]に「これより長政様を主人とする」と宣言。これを聞き、驚いた[[久政>浅井久政]]は、家臣を集めようとしたが誰も集まらず、仕方なく竹生島へ逃れた。
当主となった長政は、まず[[六角氏>六角一族の屋敷]]から迎えた妻を離別。これにより[[六角義賢>六角承禎]]は永禄3年(1560)8月、[[蒲生賢秀]]などに大軍を起こさせ、[[浅井氏>浅井家]]の属城、肥田城を攻めた。が、長政はこれを敗走させる。同年10月、[[久政>浅井久政]]夫人が竹生島の[[久政>浅井久政]]を訪れ、長政との和解をすすめた結果、長政が[[久政>浅井久政]]を[[小谷]]へ迎え、別邸を構えて住まわせた。
翌4年(1561)、[[六角義賢>六角承禎]]は[[美濃]]の[[斎藤義龍]]と結んで長政挟撃をはかり、一時、[[浅井氏>浅井家]]の支城、佐和山城を落城させるが、逆に長政に取り戻される。
永禄6年(1563)、長政は、家来、[[安養寺三郎左衛門>安養寺氏種]]から、[[織田信長]]の命により[[不破河内守>不破光治]]が縁組の申し入れをしてきたことを聞く。またこの年は、[[六角氏>六角一族の屋敷]]に内紛が起こり、それに乗じた長政は南下をはかり、坂田、浅井、伊香、[[江北三郡>近江]]に加え、愛知、犬上、高島の[[三郡>近江]]を獲得、勢力圏に治めている。
永禄10年(1567)、[[織田家]]が、[[浅井氏>浅井家]]の同盟国である[[朝倉義景]]に異心を唱えないことを条件に、[[信長>織田信長]]の妹、お市の方を娶る。
永禄11年(1568)7月、[[信長>織田信長]]は兵を率いて佐和山城に入城。[[越前]][[朝倉氏>朝倉家]]を見限った[[足利義昭]]は、長政に護衛されて[[信長>織田信長]]を頼ったのだが、この時、長政は[[信長>織田信長]]の相談相手をつとめたという。さらに、[[信長>織田信長]]と長政の敵となった[[六角氏>六角一族の屋敷]]が、[[三好>三好家]]党と結んで勢力挽回をはかったため、[[信長>織田信長]]は[[六角氏>六角一族の屋敷]]の観音寺城を攻略、[[義昭>足利義昭]]を奉じて、ついに[[入京>京都]]を果たした。長政と[[信長>織田信長]]の連携を思わせる一時期である。
しかし元亀元年(1570)には、早くも、[[信長>織田信長]]が[[義昭>足利義昭]]を傀儡化し、将軍の命令を盾に、4月、上洛せぬ[[朝倉義景]]への討伐を開始。[[京>京都]]から[[近江]]坂本を経て[[越前]]へ向かい、金ヶ崎城を攻略、さらに[[浅井氏>浅井家]]の領土を通って、[[朝倉氏>朝倉家]]の[[一乗谷]]へ迫ろうとした。長政は、縁組以来の約束を破った[[信長>織田信長]]に激怒し、[[信長>織田信長]]軍を背から追う形で攻撃。この折、[[朝倉義景]]の動きが鈍重であったため、[[信長>織田信長]]は辛くも危機を脱出して[[京>京都]]へ帰る。これを機に、長政と[[信長>織田信長]]は関係決裂。
同年6月28日には、[[姉川]]合戦において、[[織田>織田家]]・[[徳川>徳川家]]連合軍3万4千と、[[浅井>浅井家]]・[[朝倉>朝倉家]]連合軍1万8千が激突。[[浅井>浅井家]]軍は[[朝倉>朝倉家]]軍の左翼にあって、約3倍の兵力と互角に戦い、とくに先陣、[[磯野員昌]](佐和山城主)は、[[織田>織田家]]軍十三段の構えを十一段まで突き破る猛攻を見せた。が、このときも[[朝倉>朝倉家]]軍の敗走を機に、退却を余儀なくされ、[[織田>織田家]]・[[徳川>徳川家]]の勝利に終った。[[織田>織田家]]軍800余、[[浅井>浅井家]]軍は1700余の戦死者を出した。
7月、主力を失った[[浅井>浅井家]]の弱みに乗じて、[[信長>織田信長]]が佐和山城を攻略。しかし長政は援軍を送らず、逆に、城主、[[磯野員昌]]が[[織田>織田家]]に内通の噂ありと信じて、人質だった[[員昌>磯野員昌]]の母を殺害。翌元亀2年(1571)2月、[[員昌>磯野員昌]]は降伏、[[信長>織田信長]]は[[丹羽長秀]]を佐和山城主に据える。
天正元年(1573)、最大の脅威、[[武田信玄]]の死に乗じた[[信長>織田信長]]は、[[朝倉氏>朝倉家]]を滅ぼし、8月27日[[小谷城>小谷]]を攻める。28日に京極丸まで攻め寄せられた父・[[久政>浅井久政]]は自刃。62歳。すでにお市の方と三人の娘を[[信長>織田信長]]のもとに送り、 自刃しようとしていた長政は、[[信長>織田信長]]から開城を条件に助命する、という連絡をうける。[[織田>織田家]]軍によって城内の連絡を断たれた長政は、父の死を知らず、父・[[久政>浅井久政]]の助命を条件に一度は城を出ようとする。
9月1日、城外に出た長政は、父の自刃を知り、家老・[[赤尾美作守>赤尾清綱]]の宿所において自刃。29歳。介錯は木村太郎次郎。長男、万福丸は、一度は家来と逃亡するが、[[織田>織田家]]軍に捕らえられ斬首。二男、万寿丸は僧侶となり、[[近江]]長沢村、福田寺住職になる。
お市の方はのちに、三人の娘とともに[[柴田勝家]]に再嫁、天正11年(1583)[[勝家>柴田勝家]]が[[秀吉>羽柴秀吉]]に敗れると、越前北ノ庄城において[[勝家>柴田勝家]]とともに自害。三人の娘は[[秀吉>羽柴秀吉]]に引き取られ、長女・茶々(藤原菊子)は[[秀吉>羽柴秀吉]]の側室となって秀頼を生む淀殿、次女・お初(藤原藤子)は京極高次夫人(のち出家、常光院)、三女・小督(従一位・藤原達子、お江、お江与、贈号・崇源院)は佐治一成室となるが、[[秀吉>羽柴秀吉]]の命で[[秀吉>羽柴秀吉]]の養子、秀勝の室となり、秀勝死後は、二代将軍・徳川秀忠正室となって、三代将軍・家光、二男忠長を生む。
この三代将軍・家光によって、寛永9年(1632)9月15日、浅井長政は従二位中納言を追贈される。
長政の領地であった[[小谷]]においては、長政の人気は根強い。長政の善政がしのばれる。
ちなみに…長政は容姿の点でも優れていたらしく、その容貌たるや端麗にして高雅、身の丈はおよそ六尺(約180cm)の美丈夫であったと言う。
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