「藤堂高虎」(2007/06/13 (水) 03:50:52) の最新版変更点
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CENTER:[[浅井家]]
*藤堂高虎 [#ud5987eb]
とうどう たかとら
**レベル [#te916311]
55:7体
**職業 [#u3e0e5de]
陰陽師
**合戦陣配置 [#f33478ad]
[[浅井家]]・左後詰主将
**戦闘開始時台詞 [#gd8700f9]
**構成 [#x6193d90]
|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){名前}|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){職種}|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){レベル}|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){初期付与}|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){使用技}|
|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):藤堂高虎|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):懐剣陰|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):55|BGCOLOR(#e6e6fa):&color(gray){▲};|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):[[狂風]]、[[迅雷]]、[[術法剣]]、[[全体麻痺]]、[[蘇生・壱]]、[[後光]]、[[武運長久]]|
|CENTER:浅井精兵|CENTER:一刀侍|CENTER:50|CENTER:|CENTER:[[一所懸命]]|
|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):国友上級鍛治|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):鉄砲鍛|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):50|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):[[三段撃ち]]、[[陽動]]|
|CENTER:伊吹山山伏|CENTER:懐剣薬|CENTER:50|CENTER:|CENTER:[[防御呪詛・参]]、[[全体治療・参]]、[[蘇生・壱]]|
|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):竹生島神官|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):宝剣神主|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):50|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):[[神風]]、[[神雷]]、[[嵐撃・参]]、[[詠唱の韻・極]]、[[気合の韻・参]]、[[攻撃の韻・参]]、[[神の加護・参]]|
|CENTER:甲賀中忍|CENTER:一刀忍|CENTER:50|CENTER:|CENTER:[[神力両断・改]]、[[瞬殺閃]]、[[手裏剣乱射]]、[[水遁の術・極]]、[[土遁の術・極]]|
|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):徳勝寺高僧|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):懐剣僧|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):50|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):[[後光]]、[[完全回復]]、[[全体完全回復]]、[[仁王立ち]]、[[因果応報]]、[[冥護結界・弐]]|
**特徴・詳細 [#y3c51e85]
-撃破すると[[宮部継潤]]、[[赤尾清綱]]を弱体化
-[[安養寺氏種]]、[[宮部継潤]]撃破で最大5体まで弱体化
**部隊アイテム [#k2456f15]
-[[城普請心得]]
**ドロップアイテム [#q485172e]
-[[小谷城普請絵図]]
**武将列伝 [#odf37da1]
与吉、与右衛門、佐渡守、和泉守 父・藤堂源助虎高 室・一色修理大夫女、越前守連久(高連)女 子・藤堂高次、高重 養子・藤堂(丹羽)高吉
藤堂氏は、[[近江]]源氏の支流という説と、藤原氏の支流という説があるが、高虎自身は土豪の出身であり、[[足利>足利家]]時代、藤堂氏の祖である[[三河]]守景盛が[[将軍家>足利家]]に仕えて、[[近江国>近江]]数村の領主となり、藤堂という名はここから興っている。
弘治2年(1556)、[[浅井長政]]に仕えていた藤堂源助虎高の次男として、[[近江国>近江]]犬上郡藤堂村に生まれる。幼少の頃から並外れて力が強く、大柄であったと言い、8〜9歳の頃には大人の風格があり「勇力豪強士気壮武」と評された。
元亀元年(1570)、13歳(一説には15歳)の時に父と同じく[[長政>浅井長政]]に仕官し、[[姉川]]合戦に出陣している。初陣にして大手柄であったので、[[長政>浅井長政]]から賞賛されたと伝えられている。元亀3年(1572)に[[阿閉貞征]]に仕えた後、[[浅井氏>浅井家]]が滅亡したため浪人したとも、その前に同僚の山本という侍と喧嘩をして殺してしまったから[[浅井氏>浅井家]]を飛び出したとも言われるが、[[浅井家]]の滅亡後は、高島郡を支配する[[磯野員昌]]、[[織田信長]]の甥にあたる津田信澄と各家を歴任。信澄の許では丹波攻めにて名のある武将を討ち取る功を立て、母衣を許された。が、80石からの恩賞による石高加増が無いことに腹を立てて出奔。
天正4年(1576)に[[秀吉>羽柴秀吉]]の弟、[[豊臣秀長>木下秀長]]に300石で拾われ、中国攻め、[[賤ヶ岳]]の戦いや[[小牧長久手>小牧山]]の戦い、九州征伐や四国征伐にも従軍し、着実に戦功を上げていった。中でも中国攻めの一つ・播磨三木城攻略で「中国一の大力」と呼ばれた賀古六郎右衛門を討ち取る功で3000石を加増されるなど頭角を現し、1587年の九州征伐の後、[[紀伊国>紀伊]]内で2万石を得る。また、1591年に[[秀長>木下秀長]]が没すると、その養子・秀保の後見人となって[[小田原]]征伐でも功を立てて大名に加えられ、正五位下、[[佐渡>越後]]守に任じられた。
朝鮮征伐(文禄の役)でも活躍は目覚しく、秀保の代理として、水軍の李舜臣らと戦ったが、文禄4年(1595)、秀保が[[大和]]十津川で若くして溺死すると、責任を感じた高虎は[[高野山>紀伊]]に登り、剃髪する。これを[[秀吉>羽柴秀吉]]が呼び戻し、宇和島城7万石を与えている。この頃より高虎の築城の手腕が発揮され、宇和島城やこの後の今治の築城も名を知られている。
[[秀吉>羽柴秀吉]]に仕えて再度、朝鮮に渡った折(慶長の役)には、巨済島における海戦で、元均率いる朝鮮水軍を殲滅し、日本水軍としてはじめて勝利。[[秀吉>羽柴秀吉]]より感状を得て、伊予板島に8万石を与えられた。この間の[[秀吉>羽柴秀吉]]の衰弱を見て、次の天下人は五大老筆頭の[[徳川家康]]であると見越して、急速に[[家康>徳川家康]]に接近した。
慶長3年(1598)8月、[[秀吉>羽柴秀吉]]没後の対立にあっては予定通り[[家康>徳川家康]]方につき、活躍する。同年、[[秀吉>羽柴秀吉]]に禁じられていた無断婚姻を[[家康>徳川家康]]が勝手に行ったので、石田三成らが彼を[[大坂城>大坂]]に呼んで訊問し、もし反抗的な態度を取ったら即座に討ち取ろうという計画を立てていたのだが、これを察知した高虎が[[家康>徳川家康]]に密告をしたのだ。他にも[[江戸>武蔵]]に弟の正高を人質として送るなど、[[徳川家]]に対して献身的に尽くす。
慶長5年(1600)に五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して挙兵すると、[[関ヶ原]]の戦いにおいて東軍に属し、西軍の大谷吉継の軍と戦う。この一連の行動により「風見鶏」などと揶揄されてはいるが、その甲斐あって合戦後、伊予今治20万石という、それまでの倍の領地を得る。また、江戸城改築などにも功があり、最終的には津([[伊賀]]・[[伊勢]]8郡)藩22万石に加増された。他にも[[二条城>京都]]の修築などで力を発揮し、慶長13年(1608)には豊臣家への抑えとして[[伊勢]]・津22万石に転封される。津に移封された高虎は[[伊賀]]上野と津城の改修をし、豊臣軍に備えた。
それ以後、高虎は[[家康>徳川家康]]を生涯の主として徹底的に尽くす。ある時、[[家康>徳川家康]]の病気見舞いに訪れた高虎に、『宗派が違うのであの世では会えない』と言うと、すぐに[[家康>徳川家康]]の宗派の天台宗に改宗している。外様大名にありながら側近として遇されるほど、[[家康>徳川家康]]の信頼はとても厚かった。
慶長20年(1615)の[[大坂]]の陣においては[[徳川方>徳川家]]として[[大坂城>大坂]]へと参陣するも、この[[大坂]]の陣では、高虎は受難続きだった。ある日、[[徳川軍>徳川家]]の陣中に迷いこんだ豊臣軍の兵が捕らえられるということが起こった。その兵がなんと豊臣秀頼から高虎宛てになっている手紙を持っており、「両将軍を[[大坂]]まで呼びよせたのは手柄であった。約束した功を立てれば望みのものを与えよう」というものだった。これはもちろん豊臣家の策略で、これを見抜いた[[家康>徳川家康]]が、「やくたいもないこと」と信じず何事もなく終わっている。だが、その他にも冬の陣では[[真田>真田幸隆]]丸の攻撃に参加し、[[真田>真田幸隆]]幸村らに散々に打ち負かされ([[真田>真田幸隆]]丸の攻防)、夏の陣では長宗我部盛親軍を撃破するも大損害を与えられる(八尾の戦い)という目に遭っている。しかし、その苦労が実を結び、[[大坂城>大坂]]が落城したのちに32万石に加増され、従四位下・右少将に叙せられる。元和2年(1616)に[[家康>徳川家康]]が亡くなる際に先陣となるように命じられた。
なお、高虎は築城技術や算術、外交に長け、宇和島城・今治城・篠山城・[[津>伊勢]]城・[[伊賀]]上野城などの築城で知られる(この他に、[[伏見>山城]]、[[和歌山>紀伊]]、[[大坂]]、[[淀>摂津和泉]]、[[郡山>大和]]、[[&ruby(ぜぜ){膳所};>近江]]、[[名古屋>那古野]]など、築城のみならず都市計画にまで才能を発揮している)。高虎の築城は石垣を高く積み上げることに特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する[[加藤清正]]と対比される。晩年は眼病を患って失明し、寛永7年(1630)10月5日、名言『精粗の判断は上が決せられる」を残して、75歳の生涯を閉じた。
法名・寒松院殿道賢高山権大僧都、津市寿町の寒松院に葬られた。
[出世]
[[紀州>紀伊]]遠征・四国征伐の功で天正13年(1585)には1万石に出世。この頃から故郷の甲良大工を指揮して屋敷造営や築城を担当するようになる。九州征伐で死闘の末に島津軍を破った戦功で家中筆頭の[[紀伊]]粉河2万石までになった。主君・[[秀長>木下秀長]]没後は、養子の秀俊(秀保)の後見人となる。文禄の役に秀俊名代として出陣し、船奉行を務めたが、文禄4年(1595)に秀俊が没して主家が無嗣断絶すると、剃髪して[[高野山>紀伊]]に隠棲。ところが、高虎の才を惜しんだ[[豊臣秀吉>羽柴秀吉]]が「首に縄を付けてでも連れて来い」と呼び付け、伊予板島7万石の大名として復活する。慶長の役では水軍として活躍。減封される大名が多い中、[[秀吉>羽柴秀吉]]に「手柄の段無類」と1万石を加増される。ちなみに[[秀吉>羽柴秀吉]]死去による日本軍撤退の際には[[徳川家康]]の指名で現地からの収容役に任じられてる(ただし島津義弘の活躍で結局中止)。
[転身]
[[秀吉>羽柴秀吉]]没後の時代を先読みした高虎は、いち早く[[家康>徳川家康]]に接近。自ら諜報役として働き、情報分析に努め[[家康>徳川家康]]の危急を度々救った。慶長4年(1599)、弟・正高を人質として[[江戸>武蔵]]に送る。また、[[福島正則]]らに手を貸して石田三成を失脚させた。[[関ヶ原]]の戦いでは東軍に属して戦い、伊予今治20万石に加増。次いで、同10年(1605)に[[伊勢]]・津24万3000石に転封される。今治城はそのまま藤堂家の管轄に置かれたから、[[伊勢]][[伊賀]]と伊予の離れた国主を任されたことになる。[[伊賀]]の忍者を召し抱え、[[家康>徳川家康]]の内意で有事の際の居城として[[伊賀]]上野城を大改修。当時最高の30mの高石垣を誇る堅城に仕立て上げて、[[大坂]]に備えている。この後起こる[[大坂]]夏の陣の直前に[[家康>徳川家康]]が「万一の時はそち(高虎)と[[上野>伊賀]]で枕を並べて討ち死にし、秀忠は[[彦根>近江]]でもう一戦やらせよう」と言った逸話がある。
[準譜代へ]
[[大坂]]の陣には[[徳川軍>徳川家]]として参戦。[[江戸>武蔵]]・[[駿府]]の幕閣に次いで参謀に加えられた。敵の偵察も受け負う。冬の陣では大和口先鋒大将を務めた後に城南の谷町口と対峙するが、[[真田>真田幸隆]]丸の攻防戦・谷町口の攻防戦に大敗する。しかし夏の陣でも井伊直孝([[井伊直政]]の子息)とともに河内口先鋒を任され、八尾の戦いにて敵首788を挙げて長宗我部盛親を破る。天王寺・岡山の戦いでは秀忠麾下の前備となって敵首207を挙げた。戦後5万石を加増されるとともに従四位下・右少将に昇格する(家康は初め20万石を加増しようとしたが[[本多正信]]に止められた逸話がある)。[[家康>徳川家康]]からの信頼は高く「天下に大事ある時は一の先手を高虎、二の先手を直孝」「藤堂家は末代までも[[伊賀]]・[[伊勢]]から動かしてはならない」などの遺言は数多い。高虎も期待に応え、歴代将軍の良き相談相手となって幕藩体制の完成、朝廷との交渉など貢献した。元和3年(1617)3万石の加増で32万3千石となる。晩年眼病を煩い登城が困難になったが、家光は城内に真っすぐな廊下「藤堂廊下」を作ってやった。寛永7年(1630)死去。全身満身創痍で手の指も一部無くなっていた。日光東照宮には南光坊天海とともに高虎像が[[家康>徳川家康]]像の隣に並べられた。
[名築城家]
また、高虎は近世城郭の名築城家としても著名である。自身の居城では、[[粉河>紀伊]]・宇和島・大洲・今治・[[津>伊勢]]・[[伊賀]]上野。普請奉行役では、赤木・[[和歌山>紀伊]]・[[大和]]郡山・[[聚楽第>京都]]・[[伏見>山城]](豊臣時代)・[[&ruby(ぜぜ){膳所};>近江]]・[[伏見>山城]](徳川時代)・[[二条>京都]]・丹波篠山・丹波亀山・[[江戸>武蔵]]・[[駿府]]・[[名古屋>那古野]]・[[淀>摂津和泉]]・[[大坂]](徳川時代)など多数参加。城の縄張・城下町の設計を担当したことも多々あったという。ついでながら、[[家康>徳川家康]]廟として高名な日光東照宮の建立さえも高虎が携わっている。
[補足]
[[大坂]]の陣では負け運に取り付かれたのか、負けが多い。身長は約190cm、体重が110余kgあったとか(一応、現在の有名人では巨人の清原と同じくらいになる)。若い頃は短気で、同僚を斬って解雇された事があった。裏切者との評価が目立つが、「忠臣二君に仕えず」は、江戸時代に本格化した思想。戦国では勢いのある者に転身する方が絶対主流だった(厳密には一度も高虎は裏切りをしていないのだが・・・)。また、[[秀吉>羽柴秀吉]]が惜しみ、[[家康>徳川家康]]が全幅の信頼を寄せる程の人物。世渡りだけの出世ではないだろう。意外な事は大正時代、高虎が赤十字の見本となった事である。なんでも、[[大坂]]の陣での敵味方の供養を目的に南禅寺に山門を寄進した行いからだそうで、従来のイメージとは遠いものがある様な気がする。敵を保護、助命した話も割とあったり名言集みたいなものを見ると、どうにも小物には思えないのである・・・。
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