「北条綱成」(2007/06/13 (水) 02:30:53) の最新版変更点
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CENTER:【[[北条家]]】
*&ruby(ホウジョウ ツナシゲ){北条綱成}; [#k6e4eb9e]
**レベル [#b548bc2a]
55:7体
**職業 [#vd1a34e4]
侍
**合戦陣配置 [#f91400ae]
[[北条家]]・中翼後詰主将
**戦闘開始時台詞 [#m9159876]
**構成 [#n9d84d74]
|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){名前}|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){職種}|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){レベル}|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){初期付与}|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){使用技}|
|CENTER:BGCOLOR(#bfefdf):北条綱成|CENTER:BGCOLOR(#bfefdf):二刀侍|CENTER:BGCOLOR(#bfefdf):55|BGCOLOR(#bfefdf):|CENTER:BGCOLOR(#bfefdf):[[地黄八幡の護>北条家NPC特殊技能]]|
|CENTER:早雲寺高僧|CENTER:僧|CENTER:50||CENTER:|
|CENTER:BGCOLOR(#bfefdf):乱波中忍|CENTER:BGCOLOR(#bfefdf):忍者|CENTER:BGCOLOR(#bfefdf):50|BGCOLOR(#bfefdf):|CENTER:BGCOLOR(#bfefdf):|
|CENTER:伊豆衆精鋭|CENTER:陰陽|CENTER:50||CENTER:|
|CENTER:BGCOLOR(#bfefdf):箱根山神官|CENTER:BGCOLOR(#bfefdf):神主|CENTER:BGCOLOR(#bfefdf):50|BGCOLOR(#bfefdf):|CENTER:BGCOLOR(#bfefdf):|
|CENTER:相模鍛冶|CENTER:鉄砲鍛|CENTER:50||CENTER:|
|CENTER:BGCOLOR(#bfefdf):箱根山山伏|CENTER:BGCOLOR(#bfefdf):薬師|CENTER:BGCOLOR(#bfefdf):50|BGCOLOR(#bfefdf):|CENTER:BGCOLOR(#bfefdf):|
**特徴・詳細 [#aacb7ae8]
-撃破すると[[北条綱高]]、[[遠山綱景]]、[[北条氏規]]を弱体化
-[[北条綱高]]、[[遠山綱景]]、[[北条氏繁]]撃破で弱体化
**部隊アイテム [#j506aa45]
-[[北条黄龍鱗]](侍鍛)、[[北条黄龍鱗肩掛]](僧薬)、[[北条黄龍鱗羽織]](神陰)、[[北条黄龍鱗忍者鎧]](忍)
**ドロップアイテム [#m3ed6d67]
-[[地黄八幡筋兜]]
-[[地黄八幡具足]]
**武将列伝 [#ff381bd6]
1515年生。[[福島正成]]の子。孫九郎。左衛門佐、左衛門太夫、上総介。
1536年に父・[[福島正成]]が[[今川義元]]の策略により[[武田勢>武田家]]に討たれると[[北条家]]に身を寄せる。~
しかし、この時期には異説があり、1521年に[[福島正成]]が原友胤に討たれ戦死し、そのときに堀内氏の助けで[[北条家]]に身を寄せたという説である。~
この二説の時期には実に15年もの開きがある。なぜこのような資料の食い違いが生じたのであろうか?~
これは考えられることはいくつかあるが、ひとつは[[福島正成]]が二人いるという可能性である。当時の名前の習慣として名前は忌名としており、普通は使わないで通名と呼ばれるものを使う。。~
有名な例を挙げると[[織田信長]]である。彼は姓を織田、名を信長、通名を上総介としている。つまり署名するときは織田上総介と書くことも多く、郎党が名乗る場合も「織田の上総の〜」といった具合である。~
つまり、[[福島正成]]の場合は通名を左衛門太夫、つまり福島左衛門太夫と署名することが多く、[[福島正成]]と署名することは少ないのである。また、一族で同じ通名を使用している場合が多分に多く(これは多くに見られる風習である)、綱成も同じ通名を名乗っている。こう考えていくと、さて彼の父親はどちらなのであろうか?~
まず21年説であるが、討たれたのは福島某と表記されており、正成とは特定されていない。このためこちらの説は否定的な意見が多い。~
次に36年説であるが、これをとると[[北条家]]へ逃れた後の動向に不可解な点が現れる。なぜならば、彼は後述するように当時の[[北条家]]当主の子である北条為昌の後見人となっており、仕え始めてからわずか数年の人物に(さらには[[今川氏>今川家]]にとって謀反人の子であることも忘れてはならない)、自身の第三子の後見人など勤めさせ、さらには養子にまでするだろうか?~
しかしこれが仕えたのが子供のころならば話が通る。~
こう考えると、綱成が[[北条家]]に身を寄せたのは、幼少のころ、つまり、現在否定的である21年説をとったほうが自然ではないだろうか?~
さて、考証はこのくらいで彼の列伝に移ろう。
21年説によると幼少に北条家に逃れた彼は、氏綱に教育を受け、成長した後は氏綱の信頼を得、ついには北条為昌の後見人となるとともに氏綱は彼に娘を娶らす。ここからは両説ともに一致している。
1543年に北条為昌が23歳で病死すると、その後をついで玉縄城主となる。このころに姓を福島から北条に改める。~
彼の名を高めたのは川越夜戦であろう。当時川越城に守将として滞在していた彼はわずか数千の兵で7万とも言われた敵の包囲から城を守ったことである。~
また、[[北条家]]の多くの戦に参戦し、その武勇を誇っている。
氏康の死後、彼は子[[北条氏繁]]に家督を譲り出家し道感と名乗る。~
しかし氏繁は彼に先立ち早世してしまい、家督はその子に譲られることとなる。~
綱成はその約10年後、1587年、73歳でこの世を去った。
八幡大菩薩を深く信仰し毎月15日には身を清め、戦のときは五色備えの黄を率い朽葉色に染めた四半の練絹に「八幡」と墨で書いた旗を掲げ、勝った勝ったと叫んで切り込んだ。その姿は「地黄八幡」と呼ばれ敵からは恐れられ、味方の士気を高めた。~
まさに後北条の家臣団の中で最高の武勇の誉れであろう。
**情報募集中! [#x12d5922]
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