「磯野員昌」(2007/06/13 (水) 09:48:53) の最新版変更点
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CENTER:[[浅井家]]
*&ruby(いそのかずまさ){磯野員昌}; [#q689132a]
**レベル [#k5440dbc]
55:7体
**職業 [#yd07cb76]
侍
**合戦陣配置 [#n896f4ad]
[[浅井家]]・右後詰主将
**戦闘開始時台詞 [#v5922c78]
**構成 [#qbda0ab5]
|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){名前}|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){職種}|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){レベル}|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){初期付与}|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){使用技}|
|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):磯野員昌|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):一刀侍|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):55|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):[[武運長久]]、[[霧散霧消]]、[[三連撃・改]]|
|CENTER:福田寺高僧|CENTER:槍僧|CENTER:50|CENTER:|CENTER:[[後光]]、[[気合撃・四]]、[[全体完全回復]]、[[完全回復]]|
|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):甲賀中忍|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):一刀忍|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):50|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):[[神力両断・改]]、[[三連撃]]、[[水遁の術・極]]、[[土遁の術・極]]|
|CENTER:殿原衆精鋭|CENTER:懐剣陰|CENTER:50|CENTER:|CENTER:[[光芒・華]]、[[万雷]]、[[竜巻]]、[[結界・参]]、[[呪縛・参]]|
|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):竹生島神官|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):宝剣神主|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):50|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):[[詠唱の韻・極]]、[[攻撃の韻・参]]、[[神風]]、[[神雷]]|
|CENTER:国友上級鍛治|CENTER:鉄砲鍛|CENTER:50|CENTER:|CENTER:[[三段撃ち]]、[[陽動]]|
|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):伊吹山山伏|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):懐剣薬|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):50|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):|CENTER:BGCOLOR(#e6e6fa):[[蘇生・壱]]、[[霧散]]|
**特徴・詳細 [#ic417ced]
-撃破すると[[宮部継潤]]、[[海北綱親]]を弱体化
-[[井戸村光慶]]、[[宮部継潤]]撃破で最大5体まで弱体化
**部隊アイテム [#g13c28cd]
-[[十一段崩しの大槍]]
**ドロップアイテム [#d2c85479]
-[[姉川十一段崩し]]
-[[武芸書六改>侍上位目録]]
-[[剣術指南書四改>共通上位目録]]
-[[兜之書四改>鍛冶屋上位目録]]
**武将列伝 [#x5302aed]
丹波守、伊香郡高月町磯野領主、磯野城、佐和山城主。[[織田信行]]の子・信澄の養父でもある。
員昌は丹波守を称し、[[近江]]の戦国大名[[浅井氏>浅井家]]に属して数々の戦場に出陣し、磯野氏歴代のなかでもっとも名をあらわした。員昌は浅井亮政が京極氏の拠る高島城攻撃を企図したとき、その軍議に加わり合戦になるとその先陣をつとめている。また、[[浅井氏>浅井家]]と[[六角氏>六角一族の屋敷]]とが戦った四つ木の合戦には、[[浅井氏>浅井家]]の一方の大将として出陣し奮戦した。
[[浅井氏>浅井家]]は北近江の大名に成長したとはいえ、南近江の戦国大名・[[六角氏>六角一族の屋敷]]には押されぎみであった。永禄年間(1558〜69)、[[六角氏>六角一族の屋敷]]は坂田郡米原にある太尾城を占領し、[[浅井氏>浅井家]]を脅かした。太尾城は[[浅井氏>浅井家]]に属する国人・今井氏の支城で、これが占拠されたことは[[浅井>浅井家]]、今井両家はもとより、佐和山城の磯野氏にしても看過できない事態であった。今井定清は夜襲をもって太尾城を奪還しようとし、[[浅井長政]]に救援を求め、[[長政>浅井長政]]は磯野員昌に今井氏応援を命じた。ところが、今井氏と磯野氏の間で夜襲に関する取り決めが不備だったのか、今井定清は員昌の部下によって誤殺されてしまった。
合戦後、定清の思いがけぬ死に対して[[長政>浅井長政]]は弔慰を示し、員昌も部下の失態を深く詫びて今井氏に起請文を送っている。そして、定清の遺児をもりたてることを約束している。しかし、この今井定清横死のことは、今井氏の進退の曖昧さを疑った[[浅井氏>浅井家]]の陰謀が背後にあったともいわれる。
やがて、[[尾張]]の[[織田信長]]が勢力を拡大するようになり、[[長政>浅井長政]]は[[信長>織田信長]]の妹・お市を妻に迎えて[[信長>織田信長]]と同盟関係を結んだ。しかし、元亀元年(1570)、[[信長>織田信長]]は[[浅井氏>浅井家]]と親しい、[[越前]]・[[朝倉氏>朝倉家]]攻めを開始した。このとき、[[浅井氏>浅井家]]は[[朝倉氏>朝倉家]]を支援するか、[[信長>織田家]]に味方するかで意見が分かれたが、結局、[[朝倉氏>朝倉家]]を支援して[[信長>織田家]]に対立する道を選んだのである。
かくして同年6月、[[織田>織田家]]・[[徳川>徳川家]]連合軍と[[浅井>浅井家]]・[[朝倉>朝倉家]]連合軍とが[[姉川]]で激突するに至ったのである。これが、戦国史上有名な「[[姉川の合戦>姉川]]」である。この戦いに磯野員昌は[[浅井軍>浅井家]]の先鋒となり、精兵五百余を率いて[[織田軍>織田家]]に突撃した。磯野勢は[[織田>織田家]]方の[[坂井政尚]]の軍を一蹴し、進んで池田信輝の軍を撃破し、さらに[[木下藤吉郎>羽柴秀吉]]、[[柴田勝家]]の陣を突破し、[[森長可]]の軍と戦いを交える奮戦ぶりを見せた。しかし、衆寡敵せず、[[浅井>浅井家]]・[[朝倉>朝倉家]]連合軍は[[織田>織田家]]・[[徳川>徳川家]]連合軍のために敗軍となった。大勢の決したことを察した員昌は、ただちに兵をまとめ、[[氏家>氏家卜全]]・[[安藤>安藤守就]]らの諸軍を突破して、居城・佐和山城に逃げ帰った。
ほどなく、[[織田軍>織田家]]が佐和山城を攻撃してきたが、員昌は城を堅く守ってこれを撃退した。以後、佐和山城に立て籠って、[[織田軍>織田家]]の包囲勢と対峙した。員昌は包囲軍の将・[[丹羽長秀]]より降伏を勧められたが、それをいれず籠城を続けた。翌元亀二年、[[信長>織田信長]]は兵二万を率いて[[近江]]に出陣してきた。その事態に際して員昌は、[[小谷城>小谷]]の[[長政>浅井長政]]に援兵を求めたが援兵は来ず、ついに員昌は佐和山城を出て[[小谷城>小谷]]に入らんとした。しかし、員昌を疑う[[長政>浅井長政]]は入城を拒んだため、ついに員昌は[[織田軍>織田家]]に投降するしかなかった。その後、[[近江]]・[[浅井氏>浅井家]]は[[織田軍>織田家]]の前に滅亡した。
[[信長>織田信長]]は降った員昌を高島郡に移し、小川城主に封じた。[[信長>織田信長]]としては、[[近江]]土着の磯野氏をして[[近江国>近江]]の治安にあたらせる狙いがあったようで、員昌も[[信長>織田信長]]から相応の権限を与えられていたようだ。しかし、のちに[[信長>織田信長]]の怒りを買い、出奔して行方知れずになったという。系図によれば、員昌には男子一人、女子二人の子どもがあったといい、長男は加茂三郎と称し、のちに森惣左衛門と改め、森村に蟄居したと伝えている。
**情報募集中! [#e0e751fc]
-磯野員昌:武運長久、煙消霧散;福田寺高僧:後光、氣力擊、全体完全回復;甲賀中忍:三連擊、滅殺閃、神力両断・改;殿原衆精鋭:光芒・華、萬雷、龍捲風 -- [[綾]] &new{2006-03-15 (水) 14:03:06};
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