外したカチューシャをソファーに腰掛けてしげしげと観察していたふみ子さんが、良く出来てますねぇと感心したように言葉を漏らした。
数十分前にあんなに恥ずかしがっていた姿はどこへやら。
それはそれ、これはこれといわんばかりに未知のものに対する興味で動いている今の彼女の態度こそが、作家という特殊な職業で成功している理由なのかもしれない。
「耳はきれいに猫の耳の形をしてますし、内側と外側で布が違います。カチューシャの長さも変えられますよ」
かちかちかち、と長さを調節しながらいかにも興味深いといった様子で真面目に呟いている彼女が手に握っているものは、
紛れも無くジョークグッツで、そんな光景がなんだか少し可笑しくて、つい笑ってしまった。
「えい」
俺が喉の奥で笑っていると、かぽりと頭にカチューシャがかぶせられた。見遣ると、得意げな顔でふみ子さんがこっちを見ている。
「隙あり、ですっ」
ぎゅっと両手首を握ってきたのは、俺の手を抑えて自分で取れないようにして、先程のお返しとするつもりだろう。
そのまま慌てて見せることも出来たけど、敢えてそうせずに、落ち着き払ってにっこりと微笑みかえしてみせる。
「似合います?」
「……何で、そんなに似合うんですか」
目論みが外れたことに対する苛立ちより、そちらのほうが心底不思議で堪らないといった表情をありありと浮かべて呟く彼女の様子に、思わず噴き出してしまう。
「そんなに似合ってますか」
「違和感がなさすぎて不思議なくらいです」
「ふふふ、褒め言葉として受けとっておきます」
笑いながらやり取りしていると、ふみ子さんは身体ごとこちらに向けて、頭を撫でてきた。
ソファーに跨がるようにしてこちらを見てくる彼女の視線は、相変わらず俺の頭部に向いたままだ。
興が乗ってきて、余程お気に召したらしい彼女へ、猫の挙動を真似して擦り寄ると、それを察したのかくすくすとふみ子さんも笑った。
頭を撫でていた手が喉元に移り、顎の下をくるくると擽ってくる。
さすがに猫のように喉を鳴らすような気持ちよさは感じなかったが、慈しむようなその動きに、つい心地よさを覚えてしまい、猫も悪くないな、と考える。
「大きな猫さんですね」
「俺が猫だったら、可愛がってくれます?」
「そうですねえ、」
顎の下を撫でていた彼女の柔らかい指先が、俺の髪をさらさらと鳴らして、人間の、俺自身の耳朶に辿り着く。
「きっと、貴方の耳を、“一度『切符切り』でパチンとやってみたくて堪らな”くなるほどには」
突如零れた、優しい声音の彼女には似つかわしくない不穏過ぎる言葉に顔中の筋肉が強張った。それは勿論目の前にいた彼女にも伝わったようで、心底愉しそうに微笑われてしまった。
「梶井基次郎作、『愛撫』の一節ですよ」
「……小説、でしたか」
「神戸さんは、相変わらずこういうの苦手なんですねえ」
「ええ、まあ」
思わぬところで受けた返礼に思わず苦笑していると、耳たぶを柔らかな爪で擽られる。
「“猫の耳というものはまことに可笑しなものである。薄べったくて、冷たくて、竹の子の皮のように、表には絨毛が生えていて、裏はピカピカしている。
硬いような、柔らかいような、なんともいえない一種特別の物質である。私は子供のときから、猫の耳というと、一度「切符切り」でパチンとやってみたくて堪らなかった。
これは残酷な空想だろうか?”」
耳元をくすぐられながら小説を諳んじられる、というシチュエーション自体には申し分なかったのだが、
何せ小説の内容が、そういうものが苦手な自分からしてみれば不穏な空気しか感じないものだったことに困惑を隠せなかった。
落ち着いた優しさをもつ彼女の声はその空気をいくらか和らげていてくれてはいたが、
しかし、和らげてくれているとはいっても、不穏な空気が文脈の狭間に漂っているままだったことには変わりはないわけで。
「“否。まったく猫の耳の持っている一種不可思議な示唆力によるのである。私は、家へ来たある謹厳な客が、膝へあがって来た仔猫の耳を、話をしながら、
しきりに抓っていた光景を忘れることができない。このような疑惑は思いの外に執念深いものである。”」
「ふみ子さん」
「“「切符切り」でパチンとやるというような、児戯に類した空想も、思い切って行為に移さない限り、われわれのアンニュイのなかに、外観上の年齢を遙かにながく生き延びる。とっくに分別のできた大人が、今もなお熱心に――厚紙でサンドウィッチのように挾んだうえから一思いに切ってみたら? ――こんなことを考えているのである!”」
「ふみ子さん、そろそろ止めてもらえませんかね」
「……なんでです?」
「とぼけてもいけませんよ。先程のことは、謝りますから」
「ふふふ。神戸さん、『桜の樹の下で』でも読もうものなら倒れちゃいそうですね」
「……猫の恨みは怖いんですよ?」
あんまり虐めないでくださいね、と囁きながら彼女の白い首元に鼻を埋める。
本物の猫みたいですよ、と後頭部を撫でてくる彼女の手つきを堪能しながらその柔らかな鎖骨にそっと歯をあてると、彼女の肩がぴくりとはねた。
「っ、ふぅン」
鼻にかかった嬌声をあげたふみ子さんが、頬を赤く染めて非難がましそうに俺の方を見下ろしてくる。
少し潤んだその瞳があんまりきれいで、そのままじっと覗き込んでしまう。
「……もう。悪戯しちゃ駄目ですよ」
「猫ですから、悪戯くらいしますよ?」
「…………猫じゃないときでも、悪戯しますよね」
「ええ」
「即答ですか!」
「貴女が可愛らしいので」
「……理由になってませんよ」
「立派な動機ですよ」
ちゅ、とわざと音をたてるようにして彼女の額に口付けをする。
ついでに、柔らかな頬に掌をあてると、子猫のように柔らかいそれは俺の手の中にすっぽりと収まった。
「貴女が魅力的な女性だ、と言っているんだよ」
「…………ずるい、ひと」
ゆっくり、言葉を耳の中に落としていく。
それにあわせて徐々に茹でられたように真っ赤になっていった彼女の小さい呟きは聞こえなかったふりをして、懐く猫のような動きで彼女をソファーに押し倒す。
そのまま赤くなった耳にそっと舌を這わすと、また小さな嬌声が上がる。
「可愛いですよ、ふみ子さん」
舌を這わし、濡らした耳元へそっと囁くと、ふと、彼女の両手が俺の頬にそえられる。
困ったように顰められた眉の舌に揺れる潤んだ瞳と上気した頬が、俺の視界を捉えて離さない。
その囁いた耳まで茹でられたように真っ赤になった彼女が呟いた。
「……いけない猫さんですね」